アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

経験と先験的

素朴な客観主義から先験的主観主義へ!

フッサールの言う先験的主観主義とは何か?先験的とは辞書的には「経験に先駆けて」と言う意味だが、経験とは何か?

例えば足裏に画鋲が刺さって「痛い!」と感じる事の経験を考えてみる。実は足裏に画鋲が刺さった瞬間は、大変な刺激を感じるものの、実にそれが「痛み」かどうかは明確に意識できず、ましてそれが画鋲を踏んだことによる痛みかどうか、まだ認識できないのである。

つまり「画鋲を踏んで痛い!と感じる事」を経験するのは、画鋲を踏んだ「瞬間」ではなく、その直後に足の裏に刺さった画鋲を見るなどしてその状況を認識し、理解した後に「画鋲を踏んで痛い!と感じる事」を経験するのだ。

つまり経験とは「〇〇を経験した」と言うように言葉で表現できる内容として、状況を認識し、解釈し理解することで成立する。だからそのように状況を認識し、解釈し理解する以前の「瞬間」が、経験に先立つ「先験」であると言えるのだ。

フッサールによるとあらゆる「経験」は、「実際」とは異なる「解釈」によってねじ曲げられたファンタジーに過ぎない。

いや本当に、あらゆる経験は勝手な解釈によってねじ曲げられたファンタジーなのか?私は今上野に向かって電車に乗っているが、ここで経験されるリアリティもファンタジーに過ぎないのか?私が上野駅で降りそびれると仕事に遅れる事は確実のように思えるが、その「解釈」もファンタジーなのだろうか?

現象学的に捉えると、あらゆる経験はそれ自体が「事実」ではなく、まるで事実のように現象しているその現象こそが、疑う事のできない事実なのである。私は今上野行きの電車に乗り、上野駅で降りなければ仕事に遅れてしまうというリアリティが、私の主観的認識のうちに現象しているのである。

つまりリアリティそのものは一概にファンタジーではなく、リアリティそのものを事実と見做すことを、学問的態度としては素朴であり、その意味でファンタジーだという事ができるのである。

ここで、電車に乗りながら腹が痛くなってきたのだが、寒くてお腹が冷えたせいかも知れないのだか、このリアリティに惑わされてはいけない。この切実なリアリティこそが、それ自体が事実なのではなく、現象としての事実が私の主観的認識に現象しているのである。

哲学的思索を深めるとは「今」という瞬間がどのような状況であっても、常に最善の決定を行うよう意志することの一環として、哲学的思索が深められるのである。

フッサールが述べるように、事実から離れて単に事実を思念する事に意味はない。それは法句経の例えに従えば、他人の牛を数える事に等しい。

そのように他人の牛を数えるような行為は、「今」という瞬間おける最善の決定であるとは言う事ができない。

フッサールが「努力」と述べているように、努力するか?楽をするか?最善には二種の異なった決定がある。努力の決定をした場合、究極的にはソクラテスのように毒杯を仰いだり、イエスのように磔になる事が「最善の決定」となる。

だからこそもう一つの最善として「楽をする」という選択肢が用意されているのである。

永遠の「今」

人間は永遠の「今」を生きるのであり、その意味で死ぬことは決してない。しかしその「今」の内に「人はやがて死んでしまう」という確定事項が、固有の未来予測として含まれている。

人は「今」というこの瞬間に閉じ込められているのであり、「今」というこの瞬間に成し得る「最善の決定」を迫られている。

例えば、自分の意識が「殺人を犯した直後の人間」の「今」に突然として入れ替わったとしても、「自分」は「今」というその瞬間において「最善の決定」をしなければならない。

たとえ自分が貧しくとも、貧しい中からな人に分け与えなければならない、と言う法句経の教えも、「今」という瞬間における「最善の決定」を説いている。

「今」について

自分は死なないと思っている者は時間を無駄にする。自分はやがて死ぬことは確実であり、しかしいつ死ぬかはわからない、と知っている者は時間を無駄にしない。しかしこの「時間」とは非常に不思議なものであり「時間の無駄」と言うのもどういう事なのかも非常に難しい。

「時間の無駄」とは現象学的には「時間を無駄にした」という自分の主観的思いが現象している。自分は「今」時間を無駄にしており、それは過去からの継続であり、未来へと継続するであろうと推測される。そこで自分は「時間を無駄にした」とつくづく思うのである。

ところが自分は「今」だけを認識できるのであり、過去も未来も「今」ではない以上、直接認識はできない。人間にとって「今」は「今」はでしかなく、人間は過去や未来に行けない以上、いつでも「今」でしかない。

「今」というその時には「過去」と「未来」が同時にくっついている。過去の記憶と未来への予測が「今」という認識を成り立たせている。しかし、「今」この瞬間と、「今」の直前との連続性は、果たして本当に連続していると認識できていると言えるのか?

「今」という瞬間は直後に「過去」となり、別の新しい「今」に成り代わってしまう。その「今の直前の過去」と「今」が連続して繋がっているように主観的に思えるとしても、それが本当に連続しているのかどうか、どうやって確認できるのか?

実に人は「今」と「今の直前の過去」が不連続で無関係であったとしても、その事を原理的に認識できないのである。テレビのチャンネルを変えるように、自分の人生が次の瞬間に別の人間の人生に成り代わっていたとしても「自分」はそれを原理的に認識できない。

なぜなら「今」には「固有の過去」と「固有の未来予測」とがワンセットになっているからである。この「今のワンセット」が直後に全く別種の「今のワンセット」に不連続的に接続されたとしても、その事を「自分」は全く認識することは出来ないのである。

つまり人は「今」という時間に閉じ込められていている。「今」という時間は「固有の過去」と「固有の未来予測」によって人間の時間認識を遮り、人をその内に閉じ込めるのである。

例えばもし1秒ごとに「自分」から別の「自分」へと意識が次々に入れ替わり、つまり1秒ごとに「自分の今」から「他人の今」へと意識が次々に入れ替わったとしても、「自分」はその事に全く気づくことができない。だとしたら「今」この時で問題になるのは「決定」ということになる。

はじめに戻ると「時間を無駄にした」という事実は「時間を無駄にした」と気付いた「今」この時のみに生じているのであり、さらには「時間の無駄」に気付いて何をどう「決定」するのかという「今」において、「時間の無駄」というそのこと自体が生じるのである。

人間にとって時間とは「今」だけしか経験することができない。この「今」には「固有の過去」と「固有の未来予測」が含まれる。だから人は例えば言葉や音楽が理解できる。「今」が「今」という瞬間でしかないならば、言葉や音楽は認識として成立し得ず、理解することはできない。

人間は「今」しか経験できず、「今」だけがリアルに存在し、「今」だけが全てなのである。すると「今」何を決定するのかという「決定」だけが問題になる。例えば今の私のように時間についての考察を深めることも、その実体は「考察を深めよう」というその「決定」にある。

自然的な感覚では、考察は継続的に行うものであり、決定は瞬間的になされるものである。しかし考察における「継続」とは、それ自体が「今」という「瞬間」に「固有の過去」として含まれているのである。

従って考察を深めるとは、考察を継続することではなく、考察の継続を中断せずに継続することを「この瞬間に決定する」ことを意味している。

人間は「今」だけしか直接認識できず、従って時間の継続性そのものを直接認識することはできない。従って何事かを「継続する」とは正確には、「継続してきた事をこのまま継続しよう」という「決定」を「今」という瞬間において行うことを意味している。

人間の精神活動は「現象」に対する「決定」に還元される。人は絶対的に唯一の「今」という瞬間において「決定」を迫られている存在だということができる。

例えば足裏に画鋲が刺さると瞬間的に「痛い!」と感じる。この「痛い!」と感じるそのこと自体は、何ら主体的な「決定」ではなく、それ自体は「現象」である。「痛い!」と感じた瞬間は「痛い!」という感覚に意識が集約され、何らの「決定」もなされない。

しかし以上のことも、考察を深めることを決定する「今」において現象している「固有の過去」なのであり、それが「瞬間的な痛みの記憶」として認識されるのである。

想起とは、ソクラテスの指摘通り、それ自体が思考の形式なのである。人が過去を想起している時、それが本当に過去を想起しているのかどうか、「本当」には確認できない。しかし人は「想起」という「形式」によって思考する。その思考は「今」という瞬間に「思考しよう」と決定されるのである。

私は今、「決定」について考えながら書こうと決定し書いているのだが、書こうと決定した時点と、こうして実際に書き進めている最中の今とでは、「決定」の性質や種類そのものに変化はあるのだろうか?

そのように私は書きながら、書く内容そのものを私が「決定」していると言えるのか?実に言葉の性質上「意味」を形成する言葉はワンセットで連なっているのであり、そのワンセットを絵の具のチューブを絞り出すように私は「今」という瞬間に決定していると言えるかもしれない。

いや、意味は鉱脈のようにあらかじめ外部に埋め込まれていて、それを言葉の連なりによって掘り出そうと言うことを、自分が「今」という瞬間に決定している、と言うように現象している。

「痛い!」と感じた瞬間、意識はその痛みに集中し、その痛みが過去からの継続の痛みなのか、そうでないのかと言う認識すらその瞬間にはなく、つまり過去から未来予測へのレイヤー構造が無くなり、純粋な「今」だけが認識されている。しかし正確には「痛い!」と言う瞬間は、その痛みが襲った瞬間ではなく、その直後の「さっきは痛かった」と言う時点での「今」に付随する固有の過去として認識される。

演繹法と帰納法

もし我々が、自由な、囚われない目で、キリスト教の教義や教会史を眺めることができるならば、我々は一般に流布している考え方とは相反するような多くの見解を表明せずにはおられなくなるであろう。

しかしながら我々は、この世に生まれてきた最初の日から、習慣の偏見のくびきに繋がれ、少年時代に受けた印象によって精神の自然的発達の面で阻害され、また気質の形成の上でも規定されているので、仮に我々がより自由な何らかの立場を選び取ってそこに立脚しながら、非党派的な、しかも時代に適った判断を、キリスト教に関して下して見ようものなら、我々はほとんどそれを犯罪行為と見なさなければならないと思い込んでいるのである。#ニーチェ 哲学者の書

 

17世紀~18世紀の哲学 ~経験論ベーコン(帰納法)、合理論デカルト演繹法
http://manapedia.jp/text/380?m=aaa

帰納法演繹法。動物は本能によって行動する、という意味で動物は演繹法によって世界認識し、高等動物になるほどに帰納法を取り入れながら世界認識する。

岡本太郎の芸術論は演繹法であり、デカルトを引き継いでいる。岡本太郎の芸術論は、芸術とはこういうものであるという概念設定が先になされて、そこから芸術と芸術でないものの区分がなされている。

デカルトの「我思う故に我あり」は「自分」を基準に物事を考えようということに過ぎず、そのバリエーションとして「自分が芸術だと思ったものが芸術だ」という岡本太郎の芸術論がある。即ち「これは芸術だ!」と思う自分の気持ちは疑いもなく存在し、どんな権威や知識もそれを否定できない、という認識である。

認識と自己省察

昨日は東京都写真美術館の『コレクション展』と『新進作家展』を観に行ったのだが、写真というのは基本的にどれも同じ「写真」であって、その良し悪しの判断は非常に難しい、と改めて思った。そもそも写真に限らずものの良し悪しの判断は非常に難しいにも関わらず、多くの人はそれを簡単に済ませている。

「ものの良し悪しの判断は非常に難しい」という大前提があり、これを知っていれば「写真の良し悪しの判断は難しい」ということに対し恐れる必要はなくなる。それは多くの人が思っている以上に難しく、自分が分からないのは当たり前なのである。

「ものの良し悪し」と言うものは自分の「外部」に存在し、だからそれを学んで自分の内部に取り込む必要がある。人間とは精神であり、精神とは関係であり、関係への関係であるとキルケゴールは説いたが「ものの良し悪し」を知ることは関係への関係としての精神を構築することに他ならない。

ものの良し悪しを「自分の好み」を基準に判断する人は、関係への関係としての精神の連鎖を断ち切っている。しかしそもそも「自分の好み」と言うもの自体が、関係への関係として構築されたもので、その関係性の構築をある段階で断ち切るのである。

「ものの良し悪し」の判断で私が間違っていたのは一つは「自然至上主義」に囚われていたことである。これは養老孟司さんも主張していたが「人間の技術がいくら進歩してもハエ一匹作ることができない。それほど自然は人間の技より優れている。」と言う認識で、一見もっともらしく思える。

しかし人間の知性の一つに「自己省察」があり、自然科学もまた自己省察の一環なのである。つまり例えばハエの研究をする場合、自己の外部存在としてのハエを研究するつもりでいるのは素朴実在論でしかなく、現象学的にはハエの研究をすることも自己省察なのである。

つまり自然物を研究し、その素晴らしさを解明する事は、人間の外部に存在する自然の人間を超えた素晴らしさを解明した、と言うことでは決してないのである。現象学的には「外部」を設定できず、科学的成果は「自己省察」の成果に還元できるのである。

自然科学とは、人間の外部に存在する自然のメカニズムを解明する事ではなく、自己自身を省みることの一環であり、天体観測もハエの生態観察も、自己自身を省みることの一環なのである。

科学の進歩とは自己省察の深化である。

認識とは自己省察であり、認識の浅い人は自己省察が浅いのであり、問題が認識できない人は自己を見失っているのである。

認識とは自己省察であり、世界を見つめることは自己を見つめることと同意である。

文明は人間の自己省察の成果として現象している。

人によって自己省察の深度が異なっている。

様々なアーティストの作品を見て、その良し悪しの違いが分からないということは、それぞれのアーティストがどれだけ自己省察しているか、その深度が分からない、ということである。他人の自己省察を測るには自分の自己省察を深める必要があり、そして自分とは他人なのである。

人によって自己省察の深度が異なり、自分とは他人なのであり、自分が他人と対面するとは、自己省察の深度が様々に異なる自分自身と対面することなのである。

人と人とが出会うと、たいていの場合、お互いに自己省察が足りていない。

人は何の自己省察もなしに産まれてくる。

言語と言語でないもの

概念とは「分けること」であり、その分ける仕方があらゆる間違いの元になる。例えば「言語」と「言語でないもの」を分けることも概念であり、その間違った分け方に人々は囚われる。

「言語」と「言語でないもの」とを分けることは、後から生じたことであって、だから「言語」と「言語でないもの」が未だ分けられていない「原初」に戻る必要がある。

あらゆる枝分かれした道は部分的であり、だからいつでも原初に戻って総合性を取り戻す必要がある。
 イメージに囚われるとは、イメージと言語とを別物だとして分ける概念に囚われることを指す。イメージを「言語でないもの」として「言語」と分けて認識することによって、ひとはイメージに囚われる。

認識とは分割である。「言語」と「言語でないもの」を分割しない原初に回帰したその地点から新しい仕方の分割が生じる。

分割の仕方が間違っていると「本当の分割」を見失ってしまう。「本当の分割」とは「本当に必要な分割」であり、多くの人は間違った分割により「本当に必要なもの」を見失っている。

人にとって「本当に必要なもの」は何かということは、非常に難しい問題で、結局人は何を得てもやがて死んでしまうのである。しかしそのように難しい問題だからこそ、多くの人は安易な分割に、即ち「言語」と「言語でないもの」との分割に惑わされる。

物質と精神

作品とは精神の物質化ではなく、精神そのものである。そもそも精神とは非物質的なものではなく、物質であろうと非物質であろうとそれは「見掛け」の問題でしかなく、精神は精神でしかなく、作品は精神そのものなのである。

作品が失われると、精神が失われる。私は正月2日に小布施の北斎館で北斎の作品に見入っていたが、それは北斎の精神そのものであり、もちその貴重な作品が失われることがあれば、それは作品としての北斎の精神が失われることなのである。

私はさっき、長野の善光寺の名店「つち茂」のおやきと、権堂アーケードの古びたお店「ちとせや」でおばあさんが一人で売ってるおやきとを食べてみたのだが、「つち茂」が圧倒的に美味しく、「ちとせや」はハッキリ言って美味しくない。この違いは実に「精神の違い」なのである。

食べ物の美味しさの差がレシピにあると考えるのは瑣末に囚われているからで、人の作る食べ物は作った人の精神そのものであり、その点は「作品」と同じである。「ちとせや」のおばあさんは人柄的には嫌いではないし、店も古びてこじんまりとし、庶民的な佇まいでその意味で味わい深い。

しかし、ちとせやのおやきはぞんざいな味付けで、焼き方もぞんざいで、そのようなぞんざいな精神が明瞭に味に現れている。そのようなぞんざいな商売をするおばあさんの人柄自体は私は嫌いではないし、ほのぼのしていいと思うのだが、味としてはハッキリとぞんざいでまずいのである。

一方で「つち茂」は善光寺の境内に店を構えいかにも観光客相手の店といった感じで、その意味で特に面白みはないが、しかしそのおやきの味には「精神の高さ」が現れている。結局、人の作る料理の美味しさは「精神の高さ」であり「志しの高さ」であり、食べる人はそれを味わうのである。

人の作る食べ物が精神なら、人が作る作品も精神で、それは精神の現れではなく、精神そのものであり、そのような精神とは具体物なのである。なぜならある人が料理をすることによって料理としての精神が生じ、作品を作ることによって作品としての精神が生じ、作らなければ作ったものとしての精神もない。

人が亡くなればその人の精神は消えてしまう。しかし亡くなった人の遺品が残されれば、遺品としてのその人の精神は残される。しかし遺品が処分されると、遺品としての精神も消えて無くなってしまう。

人の精神には強度の違いがあり、弱い精神は淘汰され、強い精神は人の年齢を超えて何代にも渡って生き続ける。

立派な事であると思って励む贖罪の行いや、見せ掛けだけの修練を積んで、かえって利己的な我に囚われているような一連の人達がいる。このような人達は、神の真理については何も知る事がない事を、神よ憐れみたまえ。これらの人達は外見からは聖者と呼ばれるが、しかし内から見るならば愚かなロバである。#エックハルト

エックハルトが説くように、デザインとは本質ではなく外見の問題である。なんら本質を捉える事なく、外見を整えることがデザインである。同じようにブッダも苦行者を批判したが、これも本質を欠いたデザインである事を批判したのである。デザインとは見た目の美しさで、現代は見た目の時代である。

デザインとは一つには「苦行」であり、苦行を他人にもそして自分にも見せ付ける事である。例えば、やたらと手間をかけて作られた作品は、その「手間」によって人々を魅了し、作者自身もそのことに満足するが、実にそれは「苦行」であり本質を欠いたデザインである事を疑わなければならない。

現代の大衆社会、高度消費社会は外見重視の「デザインの時代」でもあるが、しかしブッダの時代のインドも様々な苦行者が現れた「デザインの時代」であり、それにブッダは異を唱えたのである。

また、結局のところソクラテスもキリストもエックハルトも、デザインを重視する人々によって、デザイン=体面を脅かす者として処刑されたのである。

「所有に囚われない」とはどういう事か?所有とは一つには物質的所有であり、物質に囚われない事が「所有に囚われない」事だと考えられるが、しかし人が作ったものは物質であると同時に、作った人の精神そのものなのである。

だから「所有に囚われない」事を物質に囚われず非物質的な精神を重んずる事と解釈するのは間違いであり、精神とはそもそも物質としても現象している。だから物質と非物質を区別するのは「見た目」に囚われているに過ぎない。

つまり「所有に囚われる人」は物質と非物質の「見た目の違い」に騙されて、この両者を区別している。「所有に囚われない人」は物質と非物質の見た目の違いに惑わされず、どちらも「精神」と見て、それによって囚われる事がない。

人が存在しなくては存在し得なかったもの、すなわち全ての人工物は等しく人間の「精神」そのものであり、その意味で我々は人々の精神に囲まれた精神世界に生きている。