アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

後悔と孤独

人間の知性が基本的に集合知であり、個人が集合知の端末だとすれば、個人的な精神病とは集合的な病であり、その意味で誰もが孤独ではない。自分の悩みは集合的な悩みであり、自分の躓きは集合的な躓きであり、自分の罪悪は集合的な罪悪であり、自分の孤独は集合的な孤独なのである。

端的言えば、私はもっと若いうちから、もっと言えば子供の頃から、ちゃんと勉強を、真の意味での勉強を積み重ねておけば良かったと後悔しているが、この後悔こそが私個人の後悔ではなく、誰にも共通した集合的な後悔なのである。

なぜなら私が以上のような後悔をするには「理由」があり、その理由はある時代のある地域に特有の理由であり、だから私の後悔は多くの人に共通の後悔だと言えるのだ。

神と恐ろしさ

人間以外の生物に罪は無い。例えばトラに人が食い殺されたとして、トラの罪を責める人はいない。また蚊が人を刺して痒みを与えたとしても、蚊の罪を問う人もいない。

哲学が困難なこの時にこそ哲学する意味がある。頭が鈍っていて哲学が困難な、哲学から最も遠いこの時だからこそ哲学する意味がある。能力の低下、自分の能力の無さ、哲学する能力の無さに、自分は常に鈍痛のような「罪悪感」を知らぬ間に持っている。しかし果たして自分の能力の無さは自分の罪悪なのか?

自分の能力の無さを自分の罪悪として自分自身で抱え込むのではなく、自分の能力の無さは実に神の恐ろしさの現れなのである。神は実に恐ろしく、それは私の能力の無さとなって現れる。自分の能力の無さを知る時、人は神の恐ろしさを知るのである。

世界は様々な理不尽に満ちていて、理不尽とは神の恐ろしさの現れなのである。自分の考える能力が低下したこの空白、それこそが神の恐ろしさの現れなのである。

罪悪感にとらわれることなく、神様の恐ろしさを恐怖すべきなのである。

この世に地獄が出現している。地獄とはこの世に出現する。

人は神の姿に似せられて創られている。だから人が善をなすのは神の善性の現れであり、この世に偉大な人が現れるのは神の偉大さの現れであり、人が慈悲深くなるのは神の慈悲深さの現れであり、人が悪を為したり、この世に悪人が存在するのは神の恐ろしさの現れなのである。

第183回 芸術分析塾ラカン 2月9日(木) のお知らせ

彦坂尚嘉塾長の下記ブログ記事からの転載です。

18:00から私も写真の授業をします。

http://41jigen.blog12.fc2.com/blog-entry-1874.html


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■課外授業

 

13:00〜
すみだ北斎美術館 鑑賞

昨年11月にオープンした「墨田北斎美術館」を観に行きます。
建物の設計は、妹島和世設計事務所です。

http://hokusai-museum.jp/modules/Exhibition/

チケット売り場に13:00集合です。
何かございましたら、下記の電話までお願いします。
080-3605-5912(糸崎公朗

 

15:00〜
東京都慰霊堂 見学

北斎美術館の近くにある、「東京都慰霊堂」を見に行きます。
建物の設計は、築地本願寺湯島聖堂を手がけた伊東忠太(1867~1954)です。
現地に集合ですが、分からない人は080-3605-5912(糸崎公朗)にご連絡下さい。

 

●今井裕基・香月恵介 “CIRCUS Vol.1”を鑑賞します。
下記をクリックしてください。
セゾンアートギャラリー
東京都渋谷区神宮前3-6-7
 

■竹林閣での授業

 

18:00〜19:20
●第6回 糸崎公朗の写真講座「前衛的カメラと伝統的写真」

カメラは単純な暗箱から、精密な機械式カメラを経て、デジタルカメラへと進化し、その意味で常に「前衛」であり続けています。一方でカメラが写し出す写真そのものは、常に写実絵画の「伝統」により忠実であろうとし続けるのであり、ここに興味深い「ズレ」が生じているのです。

 

19:30〜21:00
●第101回「ラカンと美術読書会」
テキスト:『精神分析の四基本原理』最終回

長い間少しずつ読み進めてきたジャック・ラカン著『精神分析の四基本原理』も今回がラストです。
次回からはジャック・ラカン著『精神病』をやります。
いよいよ佳境に入ってきました。
今日は、精神病の人が増えていて、友人の中にもいる時代になっています。

 

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芸術分析塾ラカン

一般社団法人 TOURI ASSOCIATION

竹林閣:東京都新宿区新宿5-14-3 有恒ビル6F

※有恒ビルの1Fには「鍵の救急車」がある。

申込・問い合わせ:
itozaki.kimio@gmail.com
080−3605−5912 (糸崎公朗

人間と罪

自分がどれだけの偉業を成そうとも、自分が偉いわけではないのと同様、自分がどれだけの罪を犯そうとも、自分が悪いわけではない。

自分がどれだけの偉業を成そうとも、それが自分のおかげではないのと同様、自分がどれだけの罪を犯そうとも、それは自分のせいではない。

人は誰でも自分のせいではない原罪を負わされている。

人は誰でも理由なく祝福され、理由なく罪を負わされている。

あなたに価値があるのには理由がなく、あなたに罪があるのにも理由がない。

人には誰にでも生きる値する価値があるように、人には誰にでも生きるに値しない罪がある。

自分がどれだけ良いことをしても「自分のおかげ」だと思い上がってはならないのと同様、自分がどれだけ悪いことをしても「自分のせい」だと思い上がってはならない。

人は自分のせいではない罪を犯しその報いを受ける。

あらゆる自画自賛が無意味であるように、あらゆる他人を褒め讃えることは無意味である。あらゆる自分の罪を責めることが無意味であるように、あらゆる他人の罪を責めることは無意味なのである。

もし神の御業というものがあるのだとすれば、全てが神の御業であり、人がどれだけ善いことをしてもそれは神の御業であり、人がどれだけ悪をなしてもそれは神の御業であり、誰も褒める必要もなく、誰も責める必要もなく、ただ神の御業を讃え恐れるのみである。

もし神の御業と言うものがあるのなら、人が善をなしたならばその人を讃えるのではなく、神を讃えなければならず、人が悪をなしたならばその人を責めるのではなく、神を恐れなければならない。

なぜ旧約聖書の神はそれほどまでに恐ろしいのかと言えば、世界というのはそれほどまでに恐ろしく、人間とはそれほどまでに愚かで罪深いものなのである。つまり人間が愚かで罪深いことは神の恐ろしさの現れであり、愚かで罪深い人に対してこれを責めてはならず、神を恐れなければならないのである。

もし、神の御業と言うものがあるのだとすれば、全ては神の御業であり、自分が善を意志するのは神の御業であり、自分が悪に流れるのも神の御業であり、善を為す自分に対しては神を讃え、悪に流れる自分に対しては神を恐れなければならない。

もし神の御業と言うものがあるのだとすれば、全ては神の御業であり、自分は自分の操縦席に座っているのではなく、自分は神に操られる自分を観察する立場にある。自分が自分の操縦席に座り、全てが自分のなすがままだと思い上がった人に、観察の視点はない。それほどに神は恐ろしいことを観察すべきである。

旧約聖書の神ほど恐ろしい神はなく、旧約聖書の民ほど愚かで罪深い民はいない。全ては神の御業であり、民の愚かさと罪深さそれ自体が、神の恐ろしさの現れでなのである。つまりそれほどまでに自分は愚かで罪深く、それほどまでに神は恐ろしい。

神はその御業により完全なる世界を創りたもうたのに、世界はなぜ善に満ちることなく、悪が蔓延っているのか?実に神はそれほどまでに偉大であり、それほどまでに恐るべき神なのである。

個人知と集合知

「レアリスム宣言」

ギュスターヴ・クールベ
1855年

「私は古今の巨匠達を模倣しようともなぞろうとも思わない。「芸術のための芸術」を目指すつもりもない。私はただ、伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった。私が考えていたのは、そのための知識を得る事、私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事、つまり「生きている芸術(アール・ヴィヴァン)」を作り上げる事、これこそが私の目的である。」

http://ogi.cbc-net.com/?eid=55

 

改めて確認するとクールベの「レアリズム宣言」は1855年で、同じフランス人ダゲールが世界初の実用写真術ダゲレオタイプを1839年に発表した16年後なのである。

そして、同時代の1954年にはナダールがパリで写真スタジオを開設しているが、当時の写真術は湿板へと進化し、パリのいたるところに写真館が開設され、肖像写真を撮ってもらうことがブームになっていた。

そのように写真術が一般化しつつある時代にクールベは「レアリズム宣言」を行い、ルネサンス以来の伝統的な写実絵画によって、過去の巨匠の模倣ではなく「私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事」を目指すと述べている。

クールベは伝統的な写実絵画によって非伝統的なモチーフを描く事によって前衛的であろうとしたが、その前衛性はフランス革命以後にもたらされた社会変動によってもたらされている。つまりまず社会変動が生じ、それによって芸術家がその変動の前衛へと立たされる事になったのである。

 

自動色付け写真について,糸崎さんのご意見を伺いたいと思っていました.

 
@hwtnv @togetter_jp スゴイですね!そうした技術があるのは知ってましたが、アニメにも使われているのですね…そう言えば「神奈川県立近代美術館」のフォトモを作った際、坂倉準三とコルビュジエのモノクロ写真をフォトショップで着色し、人物パーツにしたことがありました。
 

はい.ここで試せるんです,ぜひ

 

@hwtnv @togetter_jp モノクロの自動着色に限らず、最近フォトショップをCSからCCに変えたら驚くほど自動化が進んでいて、何にせよ少なくとも職人仕事はどんどん自動化されるという事を実感しました。

私は銀塩写真のプリントの切り貼りでフォトモを作ってきましたが、フォトショップを使うようになってわかったのは、これは人ができる作業をコンピュータに置き換えているにすぎない、という事でした。

実際に私は例えば写真の中の人物を、周囲の画像によって補完して消去したり、建物のパースを矯正したり、フォトショップが登場する以前から行なっていたのです。しかし私が培ったその手作業の技術は、フォトショップを使うようになって無効になりました。

職人仕事は機械に置き換えることができる、というのが産業革命であり、写真術もその一環で、パソコンの普及でさらにその領域が拡大し、モノクロ写真の自動着色もその一環だと思います。

ありがとうございます.コンピュータが大量のデータから学んだ色彩が付いているところが非人称的だと感じ,糸崎さんの仕事と重ねて考えていました.

@hwtnv @togetter_jp 私の仕事をきちんと把握していただいてありがとうございます。しかし私は非人称芸術を提唱しながら、フロイトの無意識については何も知らなかったに等しく、この点は大いに反省してるます。その後フロイトも読んで、ラカンも少し齧ってだいぶマシになりました

最初に掴みでつけたキーワードが意外と奥深かったりするものですよね.僕も,デジタルアーカイブがこんなに奥深いとは...

@hwtnv @togetter_jp デジタルアーカイブとかビックデータとか、人間の無意識の機能の、外在化だと思います。もともと無意識とは個人的なものではなく、集合的なものだとフロイトは述べています。

コンピュータのあり方が我々の子供時代からすっかり変わりました。昔のSFで構想された巨大コンピュータは、今思えば「個人知」の理想化で、しかし現在のコンピュータは「集合知」の側面を露わにした、と見ることが出来ます。

然りですね!

@hwtnv @togetter_jp 人間の知性はもともと「集合知」であったのに、特に近代になってそれが「個人知」のように誤解されてきた。天才信仰は個人知の理想化で、コンピュータもそのように想定されていた。

しかし小さな個人用コンピュータがネットワークに多数接続されると「集合知」の側面が露わになった。パソコンとネットの出現で、人間の知性がそもそも「集合知」であったことが、客観的に見直せるようになったのです。

デカルトに始まる理性主義は個人主義で「個人知」でしたが、フロイトの無意識、ソシュール言語学レヴィ=ストロース構造主義ギブソンアフォーダンス理論などは「集合知」を問題とし、現在のコンピュータネットワーク出現と深く関連してると思います。

私の「非人称芸術」も、不勉強ながらそうした時代の風潮を感じ取った結果だと言えます。私自身、「個人の才能」に行き詰まりを感じて、「個人知」を我流で乗り越えようとしたのです。

いまだとコンピュータのネットワークがそこを補ってくれそうですね.僕も人工知能による自動色付けに出会ったとき「これだ」と思ったのです.まだ「作品」にはなっていませんが.

@hwtnv @togetter_jp 思えばセカンドライフがコケたのは、考えが古くて「個人知」ベースだったからかも知れません。やたら大掛かりな仕掛けで、私の当時のパソコンではスペックが足りずログインも出来ませんでしたから(笑)

なつかしいですね 笑 糸崎さんとの出会いがそれでした.

@hwtnv @togetter_jp また一緒になんかやりましょう!

はいぜひ!

 

クールベの話だったが、芸術のあり方は社会のあり方と連動し、社会が変化すれば芸術も変化する。イギリス発祥の産業革命と、フランス革命によって社会が変化すれば、芸術もまた変化する。

近代とはそれまでの社会に比較して格段に変化のスピードが速い社会であり、社会の変化とは人間にとっての環境変化であり、近代によって人間は絶えざる環境変化へと突き進む事になり、そこで「前衛」の概念が生じ、芸術家もそうした前衛へと追い立てられ、そこでクールベはレアリスム宣言をした、と言えるかも知れない。

クールベのレアリスム宣言は、伝統的な写実絵画で画家は何を描写すべきか?を問うたのでありその理念は間違いなく「写真」へと引き継がれている。

クールベのように「私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事」を目指す写真家は多いはずだが、しかしクールベはその前に「私はただ、伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった。私が考えていたのは、そのための知識を得る事」と述べている。

つまりクールベは単に「私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事」だけを宣言してるのではなく、それが芸術として可能となる条件までを含めて、それを述べているのである。

クールベはまた「私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった」とも述べているが、この部分だけ見れば岡本太郎も同様の主張をしている。しかし岡本太郎はそれが可能となる方法として「ありのままの自分をさらけ出せ」と説くのに対し、クールベは「私はただ、伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった。私が考えていたのは、そのための知識を得る事」だと述べている。

これは岡本太郎の「伝統も知識もいらない」という主張の正反対なのである。つまりクールベは「私自身の個性という合理的で自由な感覚」を「獲得すべきもの」と捉えていたのに対し、岡本太郎の場合は同じものを「生得的なもの」と捉えており、そこに違いがある。

岡本太郎の主張はポピュリズム=大衆迎合主義であり、それで敗戦後日本の美術界のみならず、社会に大きな影響を与えたのである・

クールベに倣うなら写真家はルネサンス以来の伝統的な写実技法によって「私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事」を目指し、それを可能とする為に「伝統を熟知」し「知識を得る事」をしなければならない。何の知識もなくシャッターを押してもクールベの言う「生きた芸術」にならないのである。

クールベが「芸術を生み出すには伝統を踏まえ知識を得ることが必要だ」と考えるのは、芸術を生み出すのが「集合知」だと捉えているからだと言うことができる。それに対し岡本太郎は芸術を生得的な「個人知」だと捉えている。

集合知」とは何か?と言えば、「言語」を持たない人間以外の生物は「集合知」を持たない。例えば鳥は巣を作るがそれは生得的な「個人知」によるもので、創造性もなく発展性もなく没個性的なのである。

人間の持つ生得的な「個人知」とは何かと言えば、精密な人体の構成そのものが、そうなのである。しかしそのような「個人知」は、誰もがほぼ同じものを持っていて、岡本太郎が言うような個性や創造性とは結び付かないのである。

写真家と美術家

自分の肩書きについてだが、これまで私は「写真家・美術家」を名乗ってきたのだが、これからは「写真家」にしようと思って、先日『CAPA』誌でインタビュー取材していただいた際も「写真家」の肩書きにしてもらったのである。

それは写真の歴史を学べばわかる通り、写真とは系統発生的に美術の一分野であり、いわゆる前衛芸術に先駆けて、前衛芸術として登場したのである。だから「写真家」と名乗ることの中には、本来的に美術家であることと、前衛芸術家であることの意味が含まれるのである。

もちろん現に「写真家」を名乗ってはいても、美術家でもなければ前衛芸術家でもない人は大勢いるが、しかし「画家」や「彫刻家」を名乗ってはいても、美術家でも前衛芸術家ない人は大勢いるし、例え「前衛芸術家」を名乗ってはいても実質的に前衛芸術家とは言えない人も、これまた大勢いるのである。

写真が登場した当初の、写真の前衛性はどこにあるのか?と言えば一つには簡便で自動化された点であり、簡便と自動化は同一の意味である。

アラビアの光学が、人間の視覚は眼球の水晶体が網膜に像を結ぶ現象であることを突き止め、それをレンズとスクリーンを備えた暗箱(カメラオブスクラ)に置き換え、その知識がヨーロッパにもたらされ、写実絵画の描法が開発された。

すなわちルネサンス以降、ヨーロッパの画家たちはカメラオブスクラに「像」として映し出される現象を、手作業によって描き写していたのであるが、近代に登場した写真術は、同じくカメラオブスクラに「像」として映し出された現象を、化学的な処理により自動的に「画」に置き換え固定する術なのである。

そもそもルネサンス時代に登場した当初の写実絵画そのものが前衛だったのであり、写実絵画は光学や解剖学などを基礎としており、科学そのものが前衛芸術の基礎となっているのである。

それにしても「カメラ」とは一体何であろうか?カメラは写真術とともに登場し、カメラの発達により写真術は進歩したのである。カメラは初期の単純な暗箱から機械工作技術のフィルムカメラへと発達し、さらにはデジタルカメラへと発達し、常に前衛としてあり続けている。

ところがカメラが写し出す「写真」そのものはどうかと言えば、本質において進歩がなく前衛とは言い難い。と言うよりも、どのカメラメーカーは昔から共通して「普遍的正解」としての「写真」が撮れることを目指して、カメラ開発を行っているのである。

いやそれは、ルネサンス以来の西洋絵画が追っていた「普遍的正解としての写実絵画」のその理念を、カメラメーカーが引き継いだのである。そこで各カメラメーカーは、伝統的絵画の理想を実現するために、前衛的な技術を絶えず惜しみなく投入し続けるのである。

つまり「写真」の場合それを写し出すカメラが常に前衛であり続け、一方でカメラが写し出す「写真」はルネサンス以来の伝統を常に継承し続け、そのような分裂と役割分担が生じている。

そして写真術が登場して以後の絵画は、絵画作品そのものが「前衛」であろうとし、その点が「写真」とは異なっているのである。

写真術が登場して以後の絵画の前衛性とは、描写の高速化と伝統からの離脱である。描写の高速化は伝統からの離脱と同意であり、描写の高速化はルネサンス以来の伝統絵画とは異なる「筆触」を生み出すのである。

これは写真術が原理的に筆触を完全に除去し、その意味でルネサンス以来の絵画的理想を完全に実現した点において対照的だが、高速化という点においては共通性がある。

現実と現象

人が永遠の「今」を生きるということは、未だ何もなし得ない「今」を生きることであり、何かを成し得ることの「決断」を迫られている。

絶えず変化する相対的な目的しか持たない日常生活にとっては、相対的な明証と真理で十分である。#フッサール デカルト省察

現実とは、我々の認識世界にまるで現実であるかのように現象する現象であり、だからこそ我々は現実を現実と認めて現実に従わざるを得ない。

現実は現象に過ぎないからと言って、例えば疾走する車の前に飛び出せば、確実に大怪我するか死んでしまう。しかし究極的に哲学的に考えれば、そうならない可能性はゼロではない。しかしだからと言って、誰もその可能性を試すことはできず、これが現実という現象の現象の仕方なのである。

現実には現実に特有の現象の仕方があり、その他の現象とは区別される。

あらゆる現象のうち、現実と現実でないものは別の現象として区別されなければならない。