アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

考えた途中で途切れる

「考える」とは「常識を疑う」事に他ならない。いくら考えても「常識の内側」で考えることは同義反復に過ぎず、本当の意味で考えるとは言えない。

常識とは何か?動物の場合イヌにはイヌの常識があり、ネコにはネコの常識があり、カエルにはカエルの常識があり、カマキリにはカマキリの常識がある。動物は種に応じてそれぞれに異なる固有の常識を持つ。そしてどの動物の常識も、人間の持つ常識と比較して甚だしく不十分であるように思える。

・・・以下、続けようと思ったけど、忙しくて途切れてしまった。

宗教とモラル


マキャヴェッリによると、国民にモラルがあるのはその国に宗教があるおかげである。そう考えると現代の日本人には押し並べて、文明人のしての一定のモラルを備えているが、これも宗教のお陰だと言うことができる。

日本人は口では「無宗教」を言いながら、その実、宗教的な国民で、その証拠にマキャヴェッリが指摘したようなモラルを備えている。日本人の多くが「無宗教」を自称するのは、日本に特有の宗教を、日本人自身が対象化していないからで、日本人のモラルは宗教的なものだと考えられないだろうか?

「法律に触れなければ何をしてもいいのか?」あるいは「誰にも迷惑がかからないなら何をしてもいいのか?」といった問いは、マキャヴェッリ的に言えば宗教的なモラルから出ている。なぜなら宗教には、一国の法律や個人の事情を超えた普遍性があるからである。

「言語」を共有する人間は集団でなければ生きて行けないが、集団を成立させるにはモラルが必要で、さらに集団の規模によってモラルのあり方が変わってくる。即ち、集団の規模が小さいほどモラルの特殊性が高く、集団の規模が大きくなるほど、モラルの普遍性が高まる。しかしこれは概念で実際は異なる。

モラルとは人間の集団を調整するための最大公約数的なものであり、究極的には時間や空間を超えた普遍性を目指すものであるが、実際には人々が信じる「普遍」のあり方が食い違っており、それが戦争の原因になっている。

マキャヴェッリ『政略論』抜き書き2

●われわれがなんとしても深く考えておかなければならない点は、どうすればより実害が少なくてすむかということである。そしてこれを金科玉条と心得てことにあたるべきなのだ。というのは、完全無欠でなにひとつ不安がないというようなものは、この世の中にはありえないからである。

長期間存続するような国家を作ろうとするなら、スパルタやヴェネツィアのように国内を整備し天然の要害の地を選んで国家を建て、誰もがそれを容易には制圧できないと思いこむように防備を固めるべきだと私は信じたい。だが同時に隣国に脅威を与える程にその国家を強大なものにしてはならない。

中傷をなくしてしまうなによりの方法とは、法的に告発できる余地を十分にひらいておくということである。というのは、中傷が国家を毒するのと同じくらい、告発は国家を利するところ多大であるからである。

中傷するには証人も物証もいらないから、どの市民も手当たりしだいに他の市民を槍玉にあげる事ができる。ところが弾劾となると告発が間違いのないものであることを明示する積極的な証拠や情況証拠を欠くわけにはいかないものであるから、誰でもいい加減に告発されるというような事はありえない。

ヨーマを建国したロムルスの例のように、もたらされた結果がりっぱなものなら、いつでも犯した罪は許される たんなる破壊に終始して、なんら建設的な意味のない暴力こそ非難されてしかるべきものだからである。

国家を建設する器の人物は、自分の手中にした権力を遺産として誰かに残すような事があってはいけない。それというのも人間というものは善よりは悪に傾きがちのもので先の権力者が立派な目的の為に用いていた権力を、その後継者は個人の欲望を満たすために乱用してしまうに違いないからである。

宗教を破壊したり、王国や共和国を破滅に追いこんだり、人類にとって有益でかつ誇りである美徳や、学問や、その他の技能を敵視する者は、破廉恥でのろわれるべき存在である。まさに彼らこそは、不信、横紙破り、大馬鹿者、能なし、無為怠惰、卑劣と呼ぶに値するのである。

賢い者であろうと愚かな者であろうと、また悪党であろうと聖人であろうと、善悪の判断は誰が行なっても同じである。しかしながら殆ど全部の人間が上辺の善行とか見せかけの栄誉に簡単に惑わされ自ら望んであるいは気がつかないままに、優れた者よりは喰わせ者にひきずられてしまうのである。

人民がきわめて狂暴なのをみてとったヌマは、平和的な手だてで、彼らを従順な市民の姿にひきもどそうとして、ここに宗教に注目した。彼は宗教を、社会を維持していくためには必要欠くべからざるものと考え、宗教を基礎として国家を築いたのであった。

ローマ人民という集合体として、また多くのローマ人が個人としてなしとげた数限りない仕事を検討する人は誰でも、ローマ人達が法律にふれるよりは、誓いを破る事を遥かに恐れていた事を理解するだろう。この事は彼らが人間の力よりは神の力を尊重していたからに他ならない。

ローマの歴史をよくよく吟味するなら、軍隊を指揮したり、平民を元気づけたり、善人を支持したり、悪人を恥じいらせたりするのに、どれほど宗教の力が役にたっていたかがわかるであろう。

宗教のゆきわたっている国家では、平民に武器をとらせるのは容易なわざであるのに、武勇にはぬきんでているが宗教のないような国家は、平民を宗教により教化していくことは至難のわざである。

実際一人の賢明な人物には、非常に有益なものだという事が明々自々であっても、これといってはっきりした証拠がないばかりに、他の人々に説得するには今一つ迫力に欠けているという事があるものである。従って、頭のよい人物は、このような壁をとりさるために神の力に頼る事となる。

ヌマがもたらした宗教こそローマにもたらされた幸せの第一の原因だと結論づけられよう。なぜなら宗教が優れた法律制度をローマにもたらす下地となったからでありその法律制度は国運の発展を招きこのような国運の隆盛に従ってどんな事業を行なってもうまく図に当るという事になったからである。

神への畏れのない所ではその国家は破滅の他はないだろう。さもなくば宗教のないのを一時的にでもうめ合せのできる優れた君主の高徳によって統治されるより他はないだろう。そのような君主達の生命も限りのあるものだから、彼らの能力に衰えがみえてくると、たちまち国勢も地に堕ちる事になる。

たった1人の能力にその運命をかけているような王国は、短命のはかなさを嘆かねばならない。なぜなら、その支配者の命とともにその統治の才も散っていくものだから。しかも、先帝の遺徳が、次帝のなかにふたたび花開くというようなことは、ほとんど絶無に近いのである。

時間と偽装

サブカルチャーとは何か?と思ったら、本来の仏教に対する大乗仏教がサブ仏教だった。本来の文化に対する民衆のための文化がサブカルチャーであるなら、本来の仏教に対する民衆のための大乗仏教はサブ仏教なのである。

カルチャーとサブカルチャーの違いは何か?と言えば、一つには永続性に違いがある。サブカルチャーは有り体に言えば流行りものなので、スパンが短い。安価のため物質としての耐久性も短く、しかもそれを理解するための予備知識がいらない、つまり理解に必要なスパンが短いのである。

本来の文化とは歴史的継続性に根ざしているのであり、それを理解するにはそれなりに時間と手間をかけて学ぶ必要がある。ところがサブカルチャーは、時間のスパンが全く異なっている。サブカルチャーの時間感覚に慣れ親しんでいると、本来の文化が理解できなくなってしまう。

私自身もサブカルチャーにどっぷり浸り、漫画やアニメなどに夢中になり、哲学や思想も入門書ばかりを読んでいたのだが、最近はきちんとした文化であるところの「美術」や「哲学」に向き合うようになり、その際に超えなければならなかったのが「時間感覚の相違」だったのである。

かつての私はハイカルチャー的なものに反発心を抱いていたのだが、今から思えば私はその「偉そうに勿体ぶった」態度に反発していたのであり、そうしたものは偽物に過ぎなかった。

つまり、ハイカルチャーサブカルチャーに比べて時間のスパンが長いのが特徴だが、ハイカルチャーの偽物は時間の長さを演出するため、ワザと「勿体ぶった」態度を取るのである。

あるいは、ハイカルチャー的な時間のスパンを理解できない人が、ハイカルチャーとは「勿体ぶること」であると(短いスパンで)理解し、そのような態度を取るのである。

美術作品にも、非常に長いスパンの思考により作られた作品と、勿体ぶっただけで何も考えてないに等しい作品とがある。

思考とは一つには時間の長さを意味し、だから「勿体ぶる」という態度は思考における「時間の偽装」なのである。

思考とは一つには時間の長さではあるが、単に時間をかけただけでは思考にはならない。思考における時間は「筋」と結び付いている。「筋」とは人間の長い歴史の中で育まれてきたものであり、その意味での長大な時間を有している。

アリストテレスは『詩論』の中で、詩において最も重要なのは「筋」であると説いているが、それは哲学や芸術など学問は全てそうなのである。筋とは時間をかけて思考する際の筋道であり、筋のない思考はいかに時間を掛けようとも短いスパンの思考と変わらないのである。

マキャヴェッリ『政略論』抜き書き

●全ての人間は邪なものであり、自由勝手に振舞う事のできる条件が整うと、すぐさま本来の邪悪な性格を存分に発揮してやろうと隙を伺うようになる。

彼らの邪悪さがしばらくの間影を潜めているとすれば、それは何かまだわかっていない理由によるのであって、そのうちにあらゆる真理の父であるといわれて
いる時間が、その化けの皮をひきはがすこととなる。#マキャヴェッリ 政略論

人間とは必要に迫られない限り善を行なわない物である。そして拘束が取り払われ、誰も彼もが勝手放題にできるようになると、たちどころに諸事万端、混乱と無秩序でうまってしまう。飢えとか貧困が人間を勤勉へとかりたて、法律が人間を善良にするといわれるのもこの為である。

英雄的な偉業は正しい教育のたまものであり、正しい教育はよき法律から生まれる。そのよき法律は、多くの人が考えちがいして非難している、あの内紛に由来している。

君主政は容易に僭主政へ、貴族政は簡単に寡頭政へ、民衆政はたちまち衆愚政へと姿を変えてしまうものである。

トゥリウス・キケロのいうように、人民とはたとえ無知であったにしても、人民が信頼するにたるとする人物が彼らに真理を告げさえすれば、やすやすと説得されうるものなのである。

ヴェネツィアのばあいのように、平民を戦争に使わないということ、あるいはスパルタのように外来者の移住にたいし門戸を閉ざしておくということ。(国家が平和で長続きする条件)

戦争と思考

マキャヴェッリは、君主たる者は平和な時であっても常に戦争について考えねばならない、と説いているが、民主主義社会においては庶民がすなわち君主でもあるので、我々も平和な時代にあって戦争について常に考えねばならないのだが、実際にはそうなっていない。

戦後の日本人は戦争とな何か?という思考を奪われており、民主主義における君主の特権を奪われている。戦争について思考することが宗教的禁忌となり、自ら君主たる主体性を去勢してしまっている。

戦争とは何か?を根源的に言えばあらゆる生物は生存競争をしており、これがすなわち戦争なのである。だから人間は、同種の人間同士より以前に、多種の生物との間に戦争状態にある。そして現代文明とは、人間があらゆる生物との戦争において効率的に勝利し続ける状態を指している。

人間はトラやライオンとの戦争に勝利し彼らの生存を脅かし、ウシやブタとの戦争に常に勝利し彼らの肉を搾取しているのである。そもそも人間は、他種生物との戦争に勝利し続けなければ生き延びることはできず、その点は他のあらゆる生物種と同じなのである。

人間以外の動物の認識力は、人間の戦争における認識の仕方に似ている。山本七平によると戦争中の偵察部隊は「敵機発見!」とは言わず「◯時の方角に飛行物体の接近を確認」と言うように、余計な意味付けをせずに「見たまま」を報告する。

最近のニュースでも「北朝鮮がミサイルを発射」ではなく「北朝鮮から飛翔体が発射されたのを確認」と表現する。軍事における認識に余計な意味付けは一切不要で、純粋に「見たまま」の報告が求められる。それは一方で人間の認識を動物レベルに退化させることが軍事において必要である事を意味している。

動物の認識とは、例えばカエルは獲物の「動き」だけを純粋に認識し、その獲物が何であるかと言う余計な意味付けは一切しない。そして現に自分が察知した「動き」に向けて舌を伸ばすと、かなりの確率で食べ物を摂取することができるのである。人間の軍事における認識はこれと良く似ているのである。

人間以外の動物は認識において余計な意味付けをしない。逆に言えば人間だけが「言語」を使用し、認識に認識した内容以上の意味を与える。人間以外の動物は言語を介して認識しない。そしてそれこそが、ラカンの言う「現実界」の一側面なのである。

言語を使用しない動物は「現実界」に生きる。人間にも言語を使用しない現実界の領域が存在する。例えば人がリンゴを食べようと思って食べると、その一連の動作には「言語」による判断が含まれる。ところがリンゴが体内に取り込まれると、それは「言語」の領域から離れる。

もし、体内に取り込まれたリンゴが毒であったら、それは現実的に毒として人体に害をなし、本物のリンゴであれば現実的に栄養として体内に取り込まれる。このように自然の領域とは物理法則が支配する領域であり、言語と支配が及ばない現実界であると言える。

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@LateWafer 思考方法の問題なのですが「戦争とは何か?」「言語とは何か?」「美術とは何か?」など考える際、人間にだけそれらが備わっているのはヘンだと捉え、それらの起源を人間以外の生物の中に求めようとしてるのです。人間も生物ですから、生物学的枠組みで文化的事象も捉えられるのではないかと思うのです。

まず「なぜ人間は戦争をするのか?」という問題があり、そして「そもそも人間以外の生物も戦争をしてるのでは?」と言うことに思い当たった訳です。確かに光合成する植物は違いますが、動物は他の生物を殺して食べなければ自分が生き延びられず、日々殺し合いをしており、人間も例外ではないのです。

動物の生存のための殺し合いと、人間の戦争は何が違うのか?人間という同種間の殺し合いと言うことでは、生物の生存目的は種の保存ではなく、利己的な遺伝子の保存であると言うリチャード・ドーキンスの観点から、人間以外でも共食いなど殺し合いをする種のいることが説明可能です。
大量殺戮が人間の戦争の特徴なのかと言えば、それは人間はそれが可能な技術を持っているからだと言う、付随的な理由に過ぎず、原始時代の人間はそうした技術を持っておらず、人間同士の大量殺戮の痕跡も確認できていないと言われてます。

それでは動物が殺戮だけをしてるのか?と言えばそうではなく、異種同士の動物で仲良くじゃれ合っている映像がネットでは度々アップされてるのが見られます。

感情と思考

マキャヴェッリの『君主論』を君主でもない一般人がなぜ読まなければならないのか?と言えば、現代日本は民主主義社会であり、文字通りに言えば人は誰でも庶民であると同時に君主なのであり、だから『君主論』や古代中国の帝王学である諸子百家などを読む必要があるし、実際的に役立つのである。

マキャヴェッリは君主たる者他人に見くびられてはならず、恐れられなければならない、と説いている。そして私は「フォトモ」という技法が他人に見くびられやすい手法であると、自分には思えたこともあって、自分なりに勉強して理論武装に努めてきたが、今振り返るとこれは対外的にほとんど無意味だった。

分かってきたのは、日本社会で評価されるのはまず学歴の高い人間で、さらに高学歴でありながら実際には無能な人間が、人々には最も喜ばれるのである。一方ではその逆に、低学歴でありながら高い能力を有する人間は、非常に忌むべき対象として徹底的に排除されるのが、日本社会の特徴でもある。

現代の日本人の多くは「無宗教」を自称しながら宗教というものを対象化せず、その結果、日本固有の宗教にどっぷり浸りながら、そのことが自覚できないでいる。

そのような観点からすれば、多くの日本人は実に「神」というものを非常に畏れている。そして一般的に日本人にとって「学歴」とは神が与えし神聖なもののように捉えられており、だからこそ高学歴者が実際的に無能であった場合、人々に信頼と共に安心を与え、大いに喜ばれる。

この反対に、学歴がないのに高い能力を発揮せる人間は、神の領域を侵した者として非常に忌み嫌われる。これはひとえに日本人に固有の宗教観によるものであり、日本人が自らの宗教を対象化できないことに起因しているのである。

例えばキリスト教以外に宗教が存在しなかった時代のヨーロッパにおいて、宗教そのものが対象化されることはなかった。宗教の対象化とは、異なる宗教との比較によって可能となるからである。その意味で現代の日本社会は宗教的には近代化しておらず、まるで中世のようだと言うことが出来る。

現代の日本社会には固有の宗教的禁忌があるにも関わらず、多くの人はそれを自覚せず、その意味で極めて宗教的な社会であると言える。

多くの日本人は「神はいない」と口では言いながら、その実さまざまな神を畏れこれに縛られている。これまで判明しているひとつが「原理」をもたらしてくれる外国人の神であり、もうひとつが学歴を授けてくれる神である。多くの日本人はこのような神に絶対に逆らうことはしないのである。

自分のことを反省的に捉えると、自明性の問題は神の問題とダイレクトに結び付いているのかもしれない。山本七平は宗教の問題を宗教的禁忌の側面から捉えてみせてくれたが、あらゆる宗教には食物禁忌があり、無宗教のはずの日本もそれは例外ではない。

無宗教であるはずの現代日本にも食物禁忌は存在する。イヌやネコやカラスなどを食べることを日本人の大半が忌み嫌っているが、一方では同等の知性を持つ豚や牛も食べるし、カラスと同様に鳥類であるニワトリやカモも食べるので理屈には合わない。

そのように、冷静に考えて理屈に合わない禁忌について、山本七平はそれは宗教的な問題であると指摘したのである。言い換えればこれは自明性の問題であって、自明性の問題は実に宗教的な問題なのである。

自明性とはそこから先は思考が及ばない領域を指しているのであり、思考が及ばない領域は宗教の領域である、とは言えないだろうか。

思考が及ばない領域を侵犯すると、人は感情的に反応する。だから多くの日本人はイヌやネコを食べる人に対し感情的になり、同様に本来は外国からもたらされるべき「原理」を日本人が考案することに対し感情的になり、また低学歴の者が高い知性を示すことに対し感情的になるのである。

人にはそれぞれに思考が及ばない領域が存在する。しかし一方で人は思考する存在であり、その意味で思考が及ばない領域を突き崩しながら、思考の領域を広げていかなければならない。しかし思考の及ばない領域を侵犯すると人は感情的に反応し、ここに矛盾が生じ、一般に哲学が嫌われる理由もここにある。

つまり宗教的禁忌、考えてはいけない領域を侵犯しながら思考の領域を広げて行くのが哲学であり、その意味でフロイト最晩年の著作『モーセ一神教』では、ユダヤ人であるフロイト自身が宗教的禁忌に抗し「考えてはならない領域」に真正面から斬り込んでいる。