アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

物質と痛み

生活と学問における自然的態度の思考、すなわち認識の可能性のいろいろな難問題には無頓着な思考と認識の可能性の諸問題に対する立場によって規定される哲学的思考。#フッサール 現象学の理念

 

実在について論じたように、物体というも我々の意識現象を離れて別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与えられたる直接経験の事実はただこの意識現象あるのみである。空間といい、時間といい、物力といい皆この事実を統一説明する為に設けられたる概念にすぎない。#西田幾多郎 善の研究

西田幾多郎フッサールが言うように、我々は自分が慣れ親しんだ認識を、慣れ親しんでいるという理由によって信頼し過ぎている。いくら自分が慣れ親しんでいるからといって、その認識は「正しい」とは言えない。

慣れ親しんだ人を「自分が慣れ親しんでいる」と言う理由で信用する人は、簡単に詐欺師に騙される。同じように、人は自分が慣れ親しんだ認識に騙され、嘘の世界を生きる。

物体は存在しない。いや少なくとも、私が素朴に「物体は存在する」と認識するようには存在しない。物体は精神の外部に存在し、私の精神が、その外部の物体を認識するのではない。物質とは即精神現象であり、精神現象として物質は存在する。

物質は、私に対し殺傷力を備えている。つまり、目の前の石ころがいくら精神現象であっても、それを私に向かって投げてぶつけられたなら、私は実際的に傷付けられるか、さもなくば死んでしまう。

精神現象にすぎないはずの石ころを自分にぶつけられると、なぜ物理的ダメージを自分は受けるのか?と言えば、石をぶつけられて痛い思いをしたり怪我をすること自体が、精神現象なのである。それで言えば精神現象が消滅する死も、精神現象だと言える。

目の前の石ころが、素朴な認識において、自分の精神の外部に実在するかのごとく認識されるのは、実に「恐怖」によるところ大ではないだろうか?あらゆる物質は自分を傷つけ死に至らしめる可能性を持つ。その恐怖が、物質の実在性を自分に信じさせる。一般に恐怖は人の認識力を萎縮させるのである。

恐怖が、人の認識力を萎縮させている。自分が慣れ親しんだ認識に慣れ親しんでいる、と言うことも、恐怖を和らげているのである。物質に対する恐怖が、物質に対する認識を錯誤させている。死の恐怖を克服しなければ、哲学的認識は得られない。

自動車にぶつかれば死んでしまうし、ビルの屋上から飛び降りても死んでしまう。そのような素朴な恐怖が、自分に物質の素朴な実在をまことしやかなものとして信じさせるのである。

人は死の恐怖に取り憑かれるあまり、物質に対する根本的認識を取り違えている。

物質が素朴に「ある」と思えてしまうのは、痛みへの恐怖がそのようにさせている。例えば転んで地面に倒れると「痛い」と感じるだろうと、ありありと想像できるが故に、硬い地面が物質として「ある」ようにリアルに感じられるのである。

石をぶつけられると「痛い」からこそ、石が「ある」ように感じられ、包丁で切られると「痛い」からこそ包丁が「ある」ように感じられる。しかし、この「痛み」自体は、存在ではなく主観的な感覚なのである。

「痛み」は実在しない。しかし、実在しない痛みは、実在する「物質」によって引き起こされる。そして、実在しない痛みが、物質が実在する証拠として扱われるのである。

多くの人は「痛み」を避けながら生きている。もし「痛み」が生じてしまった場合には、その痛みが「消える」ことを願って、そのために最大限の努力を行おうとする。

人にとって「痛み」の存在感はとてつもなく大きい。痛みは物質として存在しないのは明白だが、非常に大きな存在感を有しているのもまた確かである。

ここで還元主義の立場を取るならば、物質の存在感は、痛みの存在感へと還元可能である。つまり、物質は痛みと同じように存在するのではなく、存在感だけがあるのである。

物質は存在しないが、物質には存在感がある。それは、痛みは存在しないが、痛みには存在感があることと同一である。なぜなら物質の存在感は、痛みの存在感が原因で生じているのである。

映画を見て、それが映像にすぎないことが理解できるのは、映画の映像からは「痛み」が生じないからである。映画の中の石ころが自分に向かって投げつけられても、映像の石ころは自分の実際の痛みの原因とはならない。つまり人は自らに生じる痛みの可能によって、物質と非物質を見分けている。絵に描かれた石ころや、写真に撮られた石ころにも、同じことが言える。

いかに痛みに存在感があろうとも、それを物質と同じ存在とはみなされないのは、他人の痛みは自分の痛みの原因にはなり得ないからである。あるいは自分の手の痛みが、自分の足の痛みの原因となることもない。自分の足の痛みに触れると、その触れた手に痛みが生じることはなく、痛みは物質と区別される。

痛みは物質ではなく、肉体的現象であり、精神現象である。肉体的現象というのは、痛みは自分の身体以外を傷付けても生じず、自分の身体を傷付けた時にのみ痛みは生じることを指す。また身体の部位によっても痛みの生じ方が異なる。

痛みは自分の精神にのみ生じる精神現象である。自分の感じる痛みは、直接的には他人と共有することができず、その逆に他人の痛みは直接的には自分と共有ができない。

物質の存在もまた、痛みと同じように肉体的現象であり精神現象だということができる。目に見える物質は、目という肉体的部位に生じており、その証拠に手をつぶると物質の姿は消え去る。また手で触れる物質の存在感は、手という肉体的部位に生じる。

手で物質の姿を見ることができないのと同様、目で物質の質感を直接に確かめる事は出来ない。そのように物質は、人間の身体部位に固有の現象として生じ、その点で「痛み」と同様なのである。

描く力と考える力

美術批評家・キュレーターの黒瀬陽平さんのインタビュー記事に、

「なぜ描かないんだ?」って、ときどき聞かれますが、それは僕に才能がないからですよ(苦笑)。実際に絵を描く力と、理論を考える力とは全く違います。その両方が備わっている人は凄くラッキー。

とあって、なるほどそんな風に考えるんだと思う一方、自分も以前はそう考えてたのを思い出す。

http://www.cinra.net/column/kaiganoarika-report?page=3

私も絵は描かなくなってしまったけど、絵画や写真などを含む、作品を生み出す力と、理論を考える力は、本当に違うと言えるのか?

以前の私は、自分の作品制作の裏付けとして「非人称芸術」の理論を構築しようとしたのだけど、実のところ自分は理論の専門家ではないので、もし私の理論になんらかの妥当性があるなら、誰か「専門家」が私の不十分さを補って、きちんとした理論へと発展させてくれるだろうと、何となく思っていた。

しかしこれは図々しい話で、実際に私の「非人称芸術」理論に興味をしてしてくれるような専門家は皆無で、その理論はけっきょく自分で考えて発展させて行くしかなかったのである。そこで色々勉強を重ねて思索を深めていき、その結果として自分自身でこの理論を否定するに至ったのだった。

実は、私が「非人称芸術」の概念を提唱し始めた当時は、思想や哲学の入門書しか読んでなかった。ところが、しばらく経ってその思索を深めようとした時点で、思想や哲学の原著を読むようになり、自分の中で変化が訪れた。

しかしそもそも一般的に言えば、人工物は考えないと作ることはできない。例えば椅子を作るにも、考えないで作ったものは座りにくかったり、すぐに壊れてしまったりするだろう。そこで椅子を一つ作るにも、それなりの理論的思考が必要になる。

ところが芸術の場合はそこのところが転倒していて、人工物であるにもかかわらず、理論的な思考無しで作れるのが芸術であると、今の日本では一般に思われている。

黒瀬陽平さんは同じインタビューで

http://www.cinra.net/column/kaiganoarika-report?page=2

美術教育を受け、訓練された作家と比べると、びっくりするくらい自由

と答えているが、これが芸術以外の分野だったら、例えば何の専門教育を受けてない人が、びっくりするくらい自由な発想で、全く新しいタイプの車のエンジンを設計することはあり得ない。

そもそも「美術教育を受け、訓練された作家と比べると、びっくりするくらい自由」と言う価値観を極限化しようとしたのが私の「非人称芸術」理論だったのだが、これはどの専門家にも受け入れられず、そして自分自身で否定するに至ったのであった。

私の「非人称芸術」理論が専門家に受け入れられなかったのは、その「極限化」に興味を持たれなかったからで、逆に言えば専門家たちは極限化する手前の「美術教育を受け、訓練された作家と比べると、びっくりするくらい自由」で立ち止まり堂々巡りしているように思えてしまう。

そして私自身は前途のように「非人称芸術」を自ら否定するに至ったのだが、それは芸術というものは、他のあらゆる人工物と同様に、理論的に考えて作るものだという事に、改めて気づいたからだった。

それはレオナルド・ダ・ヴィンチ葛飾北斎を見ればわかるように、芸術とは本来、理論的に考え抜かれて作られるのである。最近、ピカソの全作品が載っていると言う画集を見たのだが、頭が良くて知識がなければ、あれだけの多彩な絵画を一人で描くことはできないだろうと、感心してしまった。

しかしそもそも古代ギリシャソクラテスも、古代インドのブッダも、絵画や彫刻などの造形芸術は、頭を使わず手を使う仕事だとして、一段下に見ていた。だからこそ例えばレオナルド・ダ・ヴィンチは、それまでの人物画を「血の入ったズタ袋」だと非難し、解剖学や幾何学や化学などありとあらゆる分野の理論に精通しながら、芸術を成立させようとしたのである。

しかし勿論、優れた芸術は理論だけで作れるものではなく、非理論的な感覚が重要である。しかし工業製品しても、理論だけでは凡庸だったり、的を外したような製品しか作ることは出来ない。理論と理論を超えた直感が合わさることで、ライカやiPhoneなどの優れたメカが生み出されるのである。

そこで始めの問題「実際に絵を描く力と、理論を考える力とは全く違います」に戻ると、今の私としては「作品を作る力は、理論を考える力と同じ」と答えざるを得ない。それは人間がものを作る事の本質であり、芸術も例外ではあり得ないからである。

確かに「実際に絵を描く力と、理論を考える力とは全く違います」と言うイデオロギーは存在し、私もかつてそれに取り憑かれていたのだが、そのような分離が生じるのは「科学」が主流となった近代ならではの現象だと思われる。

「科学」とは日本語の文字通りにはあらゆる事物を科=カテゴリーに分けて考える学問であり、その思想が芸術を含むあらゆる分野にまで波及したのが近代という時代なのである。そして現代は、近代が終わっている。

考えた途中で途切れる

「考える」とは「常識を疑う」事に他ならない。いくら考えても「常識の内側」で考えることは同義反復に過ぎず、本当の意味で考えるとは言えない。

常識とは何か?動物の場合イヌにはイヌの常識があり、ネコにはネコの常識があり、カエルにはカエルの常識があり、カマキリにはカマキリの常識がある。動物は種に応じてそれぞれに異なる固有の常識を持つ。そしてどの動物の常識も、人間の持つ常識と比較して甚だしく不十分であるように思える。

・・・以下、続けようと思ったけど、忙しくて途切れてしまった。

宗教とモラル


マキャヴェッリによると、国民にモラルがあるのはその国に宗教があるおかげである。そう考えると現代の日本人には押し並べて、文明人のしての一定のモラルを備えているが、これも宗教のお陰だと言うことができる。

日本人は口では「無宗教」を言いながら、その実、宗教的な国民で、その証拠にマキャヴェッリが指摘したようなモラルを備えている。日本人の多くが「無宗教」を自称するのは、日本に特有の宗教を、日本人自身が対象化していないからで、日本人のモラルは宗教的なものだと考えられないだろうか?

「法律に触れなければ何をしてもいいのか?」あるいは「誰にも迷惑がかからないなら何をしてもいいのか?」といった問いは、マキャヴェッリ的に言えば宗教的なモラルから出ている。なぜなら宗教には、一国の法律や個人の事情を超えた普遍性があるからである。

「言語」を共有する人間は集団でなければ生きて行けないが、集団を成立させるにはモラルが必要で、さらに集団の規模によってモラルのあり方が変わってくる。即ち、集団の規模が小さいほどモラルの特殊性が高く、集団の規模が大きくなるほど、モラルの普遍性が高まる。しかしこれは概念で実際は異なる。

モラルとは人間の集団を調整するための最大公約数的なものであり、究極的には時間や空間を超えた普遍性を目指すものであるが、実際には人々が信じる「普遍」のあり方が食い違っており、それが戦争の原因になっている。

マキャヴェッリ『政略論』抜き書き2

●われわれがなんとしても深く考えておかなければならない点は、どうすればより実害が少なくてすむかということである。そしてこれを金科玉条と心得てことにあたるべきなのだ。というのは、完全無欠でなにひとつ不安がないというようなものは、この世の中にはありえないからである。

長期間存続するような国家を作ろうとするなら、スパルタやヴェネツィアのように国内を整備し天然の要害の地を選んで国家を建て、誰もがそれを容易には制圧できないと思いこむように防備を固めるべきだと私は信じたい。だが同時に隣国に脅威を与える程にその国家を強大なものにしてはならない。

中傷をなくしてしまうなによりの方法とは、法的に告発できる余地を十分にひらいておくということである。というのは、中傷が国家を毒するのと同じくらい、告発は国家を利するところ多大であるからである。

中傷するには証人も物証もいらないから、どの市民も手当たりしだいに他の市民を槍玉にあげる事ができる。ところが弾劾となると告発が間違いのないものであることを明示する積極的な証拠や情況証拠を欠くわけにはいかないものであるから、誰でもいい加減に告発されるというような事はありえない。

ヨーマを建国したロムルスの例のように、もたらされた結果がりっぱなものなら、いつでも犯した罪は許される たんなる破壊に終始して、なんら建設的な意味のない暴力こそ非難されてしかるべきものだからである。

国家を建設する器の人物は、自分の手中にした権力を遺産として誰かに残すような事があってはいけない。それというのも人間というものは善よりは悪に傾きがちのもので先の権力者が立派な目的の為に用いていた権力を、その後継者は個人の欲望を満たすために乱用してしまうに違いないからである。

宗教を破壊したり、王国や共和国を破滅に追いこんだり、人類にとって有益でかつ誇りである美徳や、学問や、その他の技能を敵視する者は、破廉恥でのろわれるべき存在である。まさに彼らこそは、不信、横紙破り、大馬鹿者、能なし、無為怠惰、卑劣と呼ぶに値するのである。

賢い者であろうと愚かな者であろうと、また悪党であろうと聖人であろうと、善悪の判断は誰が行なっても同じである。しかしながら殆ど全部の人間が上辺の善行とか見せかけの栄誉に簡単に惑わされ自ら望んであるいは気がつかないままに、優れた者よりは喰わせ者にひきずられてしまうのである。

人民がきわめて狂暴なのをみてとったヌマは、平和的な手だてで、彼らを従順な市民の姿にひきもどそうとして、ここに宗教に注目した。彼は宗教を、社会を維持していくためには必要欠くべからざるものと考え、宗教を基礎として国家を築いたのであった。

ローマ人民という集合体として、また多くのローマ人が個人としてなしとげた数限りない仕事を検討する人は誰でも、ローマ人達が法律にふれるよりは、誓いを破る事を遥かに恐れていた事を理解するだろう。この事は彼らが人間の力よりは神の力を尊重していたからに他ならない。

ローマの歴史をよくよく吟味するなら、軍隊を指揮したり、平民を元気づけたり、善人を支持したり、悪人を恥じいらせたりするのに、どれほど宗教の力が役にたっていたかがわかるであろう。

宗教のゆきわたっている国家では、平民に武器をとらせるのは容易なわざであるのに、武勇にはぬきんでているが宗教のないような国家は、平民を宗教により教化していくことは至難のわざである。

実際一人の賢明な人物には、非常に有益なものだという事が明々自々であっても、これといってはっきりした証拠がないばかりに、他の人々に説得するには今一つ迫力に欠けているという事があるものである。従って、頭のよい人物は、このような壁をとりさるために神の力に頼る事となる。

ヌマがもたらした宗教こそローマにもたらされた幸せの第一の原因だと結論づけられよう。なぜなら宗教が優れた法律制度をローマにもたらす下地となったからでありその法律制度は国運の発展を招きこのような国運の隆盛に従ってどんな事業を行なってもうまく図に当るという事になったからである。

神への畏れのない所ではその国家は破滅の他はないだろう。さもなくば宗教のないのを一時的にでもうめ合せのできる優れた君主の高徳によって統治されるより他はないだろう。そのような君主達の生命も限りのあるものだから、彼らの能力に衰えがみえてくると、たちまち国勢も地に堕ちる事になる。

たった1人の能力にその運命をかけているような王国は、短命のはかなさを嘆かねばならない。なぜなら、その支配者の命とともにその統治の才も散っていくものだから。しかも、先帝の遺徳が、次帝のなかにふたたび花開くというようなことは、ほとんど絶無に近いのである。

時間と偽装

サブカルチャーとは何か?と思ったら、本来の仏教に対する大乗仏教がサブ仏教だった。本来の文化に対する民衆のための文化がサブカルチャーであるなら、本来の仏教に対する民衆のための大乗仏教はサブ仏教なのである。

カルチャーとサブカルチャーの違いは何か?と言えば、一つには永続性に違いがある。サブカルチャーは有り体に言えば流行りものなので、スパンが短い。安価のため物質としての耐久性も短く、しかもそれを理解するための予備知識がいらない、つまり理解に必要なスパンが短いのである。

本来の文化とは歴史的継続性に根ざしているのであり、それを理解するにはそれなりに時間と手間をかけて学ぶ必要がある。ところがサブカルチャーは、時間のスパンが全く異なっている。サブカルチャーの時間感覚に慣れ親しんでいると、本来の文化が理解できなくなってしまう。

私自身もサブカルチャーにどっぷり浸り、漫画やアニメなどに夢中になり、哲学や思想も入門書ばかりを読んでいたのだが、最近はきちんとした文化であるところの「美術」や「哲学」に向き合うようになり、その際に超えなければならなかったのが「時間感覚の相違」だったのである。

かつての私はハイカルチャー的なものに反発心を抱いていたのだが、今から思えば私はその「偉そうに勿体ぶった」態度に反発していたのであり、そうしたものは偽物に過ぎなかった。

つまり、ハイカルチャーサブカルチャーに比べて時間のスパンが長いのが特徴だが、ハイカルチャーの偽物は時間の長さを演出するため、ワザと「勿体ぶった」態度を取るのである。

あるいは、ハイカルチャー的な時間のスパンを理解できない人が、ハイカルチャーとは「勿体ぶること」であると(短いスパンで)理解し、そのような態度を取るのである。

美術作品にも、非常に長いスパンの思考により作られた作品と、勿体ぶっただけで何も考えてないに等しい作品とがある。

思考とは一つには時間の長さを意味し、だから「勿体ぶる」という態度は思考における「時間の偽装」なのである。

思考とは一つには時間の長さではあるが、単に時間をかけただけでは思考にはならない。思考における時間は「筋」と結び付いている。「筋」とは人間の長い歴史の中で育まれてきたものであり、その意味での長大な時間を有している。

アリストテレスは『詩論』の中で、詩において最も重要なのは「筋」であると説いているが、それは哲学や芸術など学問は全てそうなのである。筋とは時間をかけて思考する際の筋道であり、筋のない思考はいかに時間を掛けようとも短いスパンの思考と変わらないのである。

マキャヴェッリ『政略論』抜き書き

●全ての人間は邪なものであり、自由勝手に振舞う事のできる条件が整うと、すぐさま本来の邪悪な性格を存分に発揮してやろうと隙を伺うようになる。

彼らの邪悪さがしばらくの間影を潜めているとすれば、それは何かまだわかっていない理由によるのであって、そのうちにあらゆる真理の父であるといわれて
いる時間が、その化けの皮をひきはがすこととなる。#マキャヴェッリ 政略論

人間とは必要に迫られない限り善を行なわない物である。そして拘束が取り払われ、誰も彼もが勝手放題にできるようになると、たちどころに諸事万端、混乱と無秩序でうまってしまう。飢えとか貧困が人間を勤勉へとかりたて、法律が人間を善良にするといわれるのもこの為である。

英雄的な偉業は正しい教育のたまものであり、正しい教育はよき法律から生まれる。そのよき法律は、多くの人が考えちがいして非難している、あの内紛に由来している。

君主政は容易に僭主政へ、貴族政は簡単に寡頭政へ、民衆政はたちまち衆愚政へと姿を変えてしまうものである。

トゥリウス・キケロのいうように、人民とはたとえ無知であったにしても、人民が信頼するにたるとする人物が彼らに真理を告げさえすれば、やすやすと説得されうるものなのである。

ヴェネツィアのばあいのように、平民を戦争に使わないということ、あるいはスパルタのように外来者の移住にたいし門戸を閉ざしておくということ。(国家が平和で長続きする条件)