アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ハインリヒ・リュッツェラー『芸術への道』抜き書き

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芸術に関係するのは造形の質であって、美の質ではない。芸術は、その本質からしてあいまいさや隠蔽に敵対しており、またそれは決然たるものであって、自ら提示するものをそれ自体として純粋に現出させようとする。だからこそ芸術は、あやふやで支離滅裂な日常性から際立つのである。#芸術への道

 

芸術は人間の限界状況に通じるものである。永遠性の前の人間、死の前の人間、罪の中の人間はいつもひとつの小さな目標から曖昧のままに先へ先へと走っていることを考える。だがキリスト教芸術は、人間を決して変るこ とのないあの裁きの前に立たせてしまうのだ。#芸術への道

 

人間は死の事実を無視して、あたかもそれが存在しないかの如くに茶化して生きることも知っていた。しかし現実には累々たる髑髏があり、死者の群がある。芸術は、この事実を直視させようとして多種多様の表現を創造してきた。#芸術への道

 

芸術は善を喚起することができる。芸術は純粋な、高度な、高貴な生命をあらわすことによって、われわれを感化することができる。素晴らしいことである。しかし、それが総てであろうか。芸術は必ずしも倫理的である必要はないのである。#芸術への道

芸術家は現実をもう一度完全なものにし直し、造形過程を通して、われわれが絵画の中に見ているものは完全なものではないのだ、ということを表現する。芸術家は、フォルムの秩序を通して人間のエネルギーを生活秩序へと導いてゆく。#芸術への道

芸術作品が形づくられているということは、精神的存在としての人間ーー単なる生物に対する優位性ーーの証明なのである。それ故に芸術作品は、人間に於ける真に人間的なものに触れるのである。#芸術への道

芸術と自然の間には超え難い距離があり、そして人間の経験は非リアリスティックなフォルムの助けを得て初めて表現され得る。#芸術への道

美的芸術は自ら限界を持つものであって、芸術がもし醜に留意しないとしたら、それは偽りの生命と化す。#芸術への道

芸術は決して倫理的である必要はなく、そこには別な可能性の領域があって、無限に開かれている。#芸術への道

「真に」生きるという時 、うわべの生や、ありきたりなものの中に埋没して生きることではなく、完全に生きること、実存の中核に生きることを意味するのである。#芸術への道

芸術は現実の写し取りであることはできない。なぜなら、現実の中には固有なものがほんの部分的断片的に、そして隠蔽されてしか示されていないからである。魚そのものは現実には生臭く、人間の肉は老化し、夏も完璧な姿で出現することはないものだ。現実の中でわれわれに触れるのは、根元的なものの予感、楽園や生命の充溢の予感に過ぎないのである。#芸術への道

芸術は開示し、発見し、うたい、頂きを指して迫って行く。そして「現実」から「真実」へ到達しようとして、夢幻的なフォルムな活用する。芸術とは、ゲーテの言葉で言うと、「探求しがたいものの生動的瞬間的開示」である。それ故に芸術作品は至上のものである。#芸術への道

芸術作品はその主題の限界の中で、われわれには理解することも把握することもできないものを生きた瞬間として提示し続ける。芸術は、時間から出発しながら超時間的な意義を持つことになるのである。「芸術とは、言葉では言い表わし得ないものの仲介者である。」#芸術への道

ゴッホはベルギーの炭坑地帯の伝導師になろうと決心する。それは貧しい人々への単なる同情心からではなく、しいたげられた人々の中に神の生き写しの姿を求めるという心からの、大変感動的な願いからであった。やがて彼は、ほんの僅かの教育を受けただけで絵を描き始めた。#芸術への道

人間的な純粋さの対極として「不純」ということを考えてみよう。ある人があたかもの如き態度をとった、という場合などの如きはその例である。もし芸術が真実のうちにあるとするなら虚偽のうちには存在し得ない。#芸術への道

芸術は偽りの感情からは生れない。芸術は愚直、英雄気どり、デモーニッシュ、感傷的など、気取りからできるものではない。われわれの前にはまがいものが氾濫し、不純な態度が一大世界を成して広がっている。#芸術への道

騎士の装いの古めかしさ、そして内容の作為性が感じられ、つまりトーマは非神話的な時代にありながら作為的に神話を「創り出そう」としたのである。われわれの論題はここで初めて導き出された。すなわち芸術におけるわざとらしさーー古めかしさーーでっち上げということである。#芸術への道

芸術においては、 感情を強く出し過ぎると、しばしば純粋でなくなるという危険が生じる 例えばそれは感傷とか激越、気まぐれなど、様々の形をとって現われる。#芸術への道

人はいくらでも考え出すことはできるが、ただそれだけでは芸術的に「そこに」存立しない。考えられたものに血肉が与えられなければならないのである。言い換えれば芸術に関する限りは線、面、動き、構図、そして色彩に発展しなければならない。#芸術への道

 

 

『切断芸術運動というシミュレーションアート展』

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告知が遅れて申し訳ありませんが、展覧会をやっておりますので、どうぞよろしくお願い致します。

私も作品『反−反写真(切断芸術』と『フォトモ(切断芸術)』を出品しております。

また、6月30日(金)の2時からは、彦坂尚嘉×糸崎公朗トークショーも開催します。

詳細は下記ウェブページをご覧下さい。
https://setsudangeijutsu.wixsite.com/setsudan
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展覧会名
『切断芸術運動というシミュレーションアート展』

会期
2017年6月25日(日)~7月6日(木)

会場
東京都美術館 ギャラリーA
〒110-0007 東京都台東区上野公園8-36

開室時間
9:30~17:30(入室は閉室の30分前まで)

夜間開室
金曜日は9:30~20:00(入室は閉室の30分前まで)

休室日
7月3日(月)

観覧料
無料

トークイベント1
彦坂尚嘉×糸崎公朗
『切断芸術という手法と、思考と、出現する現象』
6月30日(金)14:00〜15:30・ギャラリーA

トークイベント2
美術批評家:矢田滋×現代アーティスト:生須芳英
『芸術とデザインの遺伝子組み換え反対という主張』
7月1日(土)14:00〜15:30・ギャラリーA

【出品作家】
彦坂尚嘉(代表、現代美術家、詩人、音楽家、芸術分析家、美術史評)
中田 文(映画監督)
糸崎公朗(写真家/美術家)
丸野由希子(美術作家)
波多正木(画家/サロン・ブラン美術協会・日仏現代国際美術展
柳川たみ(美術家/詩人、文芸誌『無文芸』を主催)
西水俊二(美術家)
工藤悦仙(画家/役者)
菅野英人(写真家)
中川晋介(アニメーション・アーティスト)
田山寛明(現代美術家
矢田滋(美術評論家、東京芸術大学芸術学科大学院卒業)
李染はむ(現代美術家
須藤光和(版画家、臨床美術師)
西山雪包(美術家)
花牟礼有基(日本画家)
ヴァンだ一成(現代アーティスト)
生須芳英(現代アーティスト、音響詩人、音楽家)

主催
切断芸術運動
東京都美術館
(公益財団法人東京都歴史文化財団

物質と精神

物質主義は盲目をもたらすと、宗教家の手島郁郎先生は述べているが、芸術は物質であって物質でないという二つの側面を持つ。それは人が肉体という物質的側面と、非物質的な精神的側面の、二つを持つことと対応している。

肉体という物質があって、精神という非物質が存在しうる。少なくとも個人の発生において人は人としての精神のない肉体だけの赤ん坊として生まれ、その後より非物質的な精神を築き上げる。

精神の無い肉体に、どのように精神を築き上げるのか?それは束石や柱や床材、壁材、瓦などに相当する、精神的な建築資材を余所から持って来て、それを組み合わせて積み上げるのである。

非物質的な精神的建築資材は、他者の物質的肉体に一時保管されている。一時保管と言うのは、どの人間もいつかは死んでしまうから一時保管なのである。人はそのような自らの精神的建築資材を、空き地である子供の中へと運び入れ、大人としての精神を築く。

物質主義とは何か?近代とは物質の時代であり、だから物質主義批判も出てくる。私の観たところでは、近代的な物質主義とは呪術の延長にあり、だからこれは旧約聖書にも記されている呪術批判に通じている。

いや聖書だけでなく、古代ギリシャ哲学においても、古代インド仏教においても、実利を願う呪術は下等なものとして使用が戒められている。人は実利的なものに心を奪われてはならず、だから物質主義が批判される。

物質には物質の法則があり、物質の法則を明らかにすることで物質をコントロールし、人々に様々な実利をもたらすことができる。物質が人に実利をもたらすのは、人の肉体が物質であり、肉体の延長としての物質が人に実利をもたらす。

精神に役立たない物質と、精神に役立つ物質とがある。まず人に快楽、気晴らし、優位性をもたらす物質は精神に役立たない。しかし人に交流をもたらす物質は、論語に「朋あり、遠方より来たる」とあるような意味で精神に役立つ。

近代的な物質主義の産物である世界交通網や印刷技術などによって、我々は『聖書』と『ソクラテスの弁明』と『ブッダの言葉』と『論語』とを読めるようになったのである。しかし書物から何を読み取るか?はまさに精神の問題で、沢山の本を読めばいいと言うものではない。

手島育郎先生も、物質主義に溺れたクリスチャンには、真の意味での聖書を読む能力が失われていると、嘆いておられるのである。また、私が尊敬する日本人哲学者の西田幾多郎先生も、自分は読書量はそう多くないと述べておられる。

近代以前の人々が思い描いた呪術の力は、イギリスの産業革命によって、それが物質の法則を解明することによって可能になることが、解明された。物質の法則は連鎖しており、技術的な進歩も連鎖的に自律的に進化し続ける。すると人間の精神的な進歩とは何だろうか?

人間は赤ん坊として生まれ年齢と共に大人へと成長する。つまり人間の精神的成長は子供から大人への成長であり、大人に成ってから成長が止まることなく、さらなる大人へと成長し続ける事が、人間の精神的成長なのである。

子供とは自然であり、大人へと成長することは自然からの離脱を意味している。大人とは自然に非る人工産物であり、人類史的な蓄積の産物である。しかしその源はどこにあるのか?

ともかく人には「自己反省」の能力が備わっているのであり、それによって色々なものが見えてくるのであり、そこから精神的成長という現象も生じる。そして物質主義への批判とは、これによって自己反省の眼が妨げられてしまうことへの批判だと言える。

実に、物質から法則を見出す科学技術の発達も、人間に備わった自己反省能力の一環なのである。つまり人の肉体は物質であり、この自己としての物質を反省的に捉える視点から科学技術は生じるのである。

ところが科学技術はある一点においての自明性に依拠しており、その点においての自己反省性が決定的に欠けており、それ自体では精神的成長に寄与できない。つまり科学は人の「自然性」から生じる欲望に依拠しているのであり、だから呪術の延長として捉えられるのである。

子供から大人に成長するにつれ、自然的な欲望は断念される。親は子供のために自らの自然な欲望を断念するからこそ、人の親たりうるのである。子育てする動物の親も、自分の欲望を断念するからこそ子育てができる。

他者認識できない動物は自らの欲望を抑える術を持たず、子育てができない。よって昆虫は卵から生まれると同時に、親の手を借りず自分一人で生きているようにできている。

いやしかし考えてみると、子育てしない昆虫も、卵を産む場所は、生まれた幼虫が適切に育つ場所を時間をかけて選別する。アゲハチョウは飛びながら緑色の葉を識別し、前脚の味覚器官によって幼虫の食草であるミカン科植物を見分け、そこに産卵することが知られている。

動物には個体としての死があり、それ故に徹底して自己のために生きることはできず、必然的に子孫という他者のために生きる側面を持つ。しかし昆虫の産卵など利他的行動は、本能によって制御されている。本能は動物の欲望を制御している。

例えば「食べる」という欲望は、満腹感に制御されているのであり、そのような本能は人間にも備わっている。しかし人間は、自然的な欲望の制御を超えて、自身の欲望を制御することで「大人」へと成長する。

人間と信用

お金の起源について知りたくなったのですが、これはなかなか良い記事ではないかと思います。
https://hikakujoho.com/manekai/entry/20160809

hikakujoho.com

 

お金の起源は「信用」にある。お金に対する信用とは、即ち人間に対する信用である。だから「人間は信用できないが金は信用できる」と言う人は、実は人間を心の底から信用しているのである。

そもそも人間は、お金に限らず、ありとあらゆるものを簡単に信じてしまうという性質を持つ。子供は何でも素直に信じてしまい、大人になるにつれて疑い深くなるが、しかし実際に大人の多くは実にたくさんの事物を自明的に信じている。

超人と芸術

近代とはイギリスの産業革命に端を発した科学の力によって、人間が人間を超える力を身につけ、人間が人間を越えようとする営みであり、それは芸術についても同じなのである。

産業革命はイギリスで起きたが、その後世界各地に波及し、写真の発明競争はフランスが勝利した。写真術も、人間が人間を超える能力を身に付けた一環である。一面の説明としては、画家たちは写真の発明によって、画家から画家を超えた者へと進化するよう追い立てられることになった。

つまり!科学技術を手に入れた近代人とは即ち超人なのである。自明性によって科学技術を捉える現代人には分からなくなってしまっているが、技術が進歩するにつれ、人間は人間を超えた超人へと進化して行く。

もっと遡ると、原始時代において石器を持った人間は石器を持たない人間より進化している。また農業技術を取り入れた文明人は、少人数で狩猟採集生活を行う原始人より進化している。人間は技術開発によって、肉体的には人間のままで人間を超えた超人へと進化するという特性を備える。

人間は進化するときは進化するし、進化しないときは進化しないし、その点は生物の進化現象と同じである。ともかく産業革命以降は進化の時代で、技術は人間各自の意思を超えて自律的に進化する側面を持つ。

そのような技術の進歩に追い立てられ、直接的には写真術の登場とその波及に追い立てられ、芸術家は芸術家を超えた存在へと進化し、芸術は芸術を超えたものへと進化しようとしてきた。ところが、科学技術の進歩が即ち芸術の進化ではなく、そのズレから様々な錯誤が生じるのである。

つまりデュシャンの便器に代表されるレディ・メイドとは、人間を超え、芸術を超えようとする試みではあったが、結果としてはネコの視点へと退化してしまっているのであり、そこに錯誤が生じている。

映画『続・猿の惑星』に登場した、水爆ミサイルを神と崇める未来人のように、人間は実に簡単に、神でないものを神と錯誤し、芸術でないものを芸術と錯誤する。

科学技術の進歩により人間は超人へと進化し、科学技術の進歩に追い立てられて、芸術家は芸術を芸術を超えたものへと進化させようとするが、科学技術の進歩と芸術の進歩はイコールではなく、そこに様々な錯誤が生じることとなった。

赤瀬川原平さんは「超芸術トマソン」の概念を見出したが、それは実に庶民的な発想でしかなく、実際には近代芸術そのものが超芸術であったのであり、私の「非人称芸術」理論はその反動でもあったのである。

つまり私の非人称芸術は、近代的な芸術が否定した具象的なミメーシスの肯定の理論であり、それによって近代芸術の袋小路を乗り越えようとしたのである。しかし、近代芸術が陥った袋小路とは、庶民的な感覚によって陥った錯誤でしかなく、進化の本道ではなく、それを問題にすること自体が間違っている。

そもそもでいえば、農業技術の発明によって、芸術が生まれたのである。近代芸術が科学技術と共に生まれたのと同様、芸術はそもそも何と共に生まれたのかを確認して把握する必要がある。なぜなら自明性から進化は生じないのである。

自明性から進化は生じない。自明的な認識とは動物的認識であり、そこから人間的な進化は生じ得ない。自明性を打ち破ることが人間的な営みであり、人間的な進化をもたらす。

自明性の強い庶民的な感覚からは何も生じない。岡本太郎は庶民的な感覚のまま庶民的な感覚を否定し、庶民的なアバンギャルド芸術を展開しようとしたが、全ては錯誤でしかなかった。そして赤瀬川原平さんも、その著書の中で庶民を自称されていたのである。

人間にとって超人とは何か?と言えば、人間の群体動物としての側面としての超人なのである。例えばソクラテスがどのように超人なのかと言えば、農業を基盤とした奴隷制度によって、哲学が可能な環境を得ているという点において超人なのである。

文明とは群体動物としての人間の進化として捉えることができる。

人間個人の精神は、文明システムのおかげによって、生物としての人間的成熟を超えて成熟できる一方、精神的に未熟な人間も超人としての能力を発揮することができる。

文明とはハンブラビ法典を読めばわかるように、根源的に弱者救済のシステムであり、逆に言えば文明の利便性におんぶで抱っこの大量の弱者を生み出すシステムでもある。

私自身は未熟児で生まれ保育器で育ったので、文明のシステムによって救済された弱者の一人なのである。

神と自明

神は存在しない。のであれば何が存在するか?と言えばあらゆるものが自明的に存在するのである。

無宗教」を自称する多くの日本人は、神の存在を自明的に信じることが宗教だと思いなしているが、そのような人こそ自分を含むあらゆる事物の存在を自明的に捉えている。神とは自明性の対義語でもある。

古代ギリシャピュタゴラスが数の不思議を神と錯誤してピュタゴラス教団を結成したように、人間は何でも神と錯誤しうる。神でないものを神と錯誤するのは無知の故であり、無知とは世界認識が何らかの自明性により成立している状態を言う。

あらゆる人工物の意味を捨象し純粋なオブジェの連なりとして観る「非人称芸術」の視点とは即ち「ネコの視点」と同じではないか?すると、便器を逆さまに置くなどしたデュシャンのレディ・メイドの視点とは、ネコの視点ではなかっただろうか?ネコの視点を芸術と錯誤したのがレディ・メイドだったのか?

他力と自明

他力は多力であり、自明とは反義語の関係にある。

全ての人工物は他力によってできている。しかし素朴な感覚において、あらゆるものは自明に存在する。多くの人は全てを自明とはみなさないまでも、世界のかなりの部分を自明的に捉えている。

この自明性を徹底して、「全て」を自明的に捉えるとどうなるか?それはネコの視点であり、それこそが「非人称芸術」視点だったのである。

岡本太郎が提唱したのは人間の動物化であり、人間が人間を捨てて動物化することで芸術が可能になるという理論である。そして人間が動物化すること自体の「徹底化」が、「非人称芸術」だったのである。