アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

闘争とクリエイティビティ

闘争からクリエイティビティが生じる。闘争が大規模化することはクリエイティビティが大規模化する事と同意であり、それが近代だと言える。闘争を避けるためにはクリエイティビティを低下させるのが一つの方法であり、それが現代日本の写真を含むアートの状況だと言える。

マキャヴェッリによると、人間の本性は非常に嫉妬深く猜疑心が強い。そこで、このことが原因で生じる争いを避けるための方法のいくつかをマキャヴェッリは述べているのだが、日本人には日本のやり方が古来より存在するのである。

結局のところ日本のアート界は、嫉妬による争いを防ぐため、クリエイティビティを低下させることによって成り立っているのではないだろうか?クリエイティビティを真剣に追求した者同士の争いの激しさに、穏やかな人々は耐えることができず、これを抑えるための巧妙なシステムが構築されているのではないだろうか?

技術的な争いは、これは技術の領域であるので嫉妬心は生じにくい。しかし芸術が精神の産物であるとして、精神の高さを争うことに対しては、嫉妬心が生じやすい。また天性の才能に対してよりも、努力で獲得した能力に対して嫉妬心が生じやすい。

精神の高さについて、これは人間の本質的な価値や優劣に関することであるから、嫉妬の対象になりやすい。しかし、持って生まれた才能の差は、自分ではどうしようもないことなので諦めがつきやすい。

努力で獲得した能力について、多くの人はまず「努力したくない」のであり、だからこそ「努力の人」に対し、努力しない人を責めているという猜疑心を持ち、なおかつ努力できることに嫉妬するのである。

だから日本のアート界においては努力して自らの能力を高めた人を評価せず、持って生まれた才能の持ち主を評価する。しかしアートにおける「持って生まれた才能」とは実質的にはファンタジーでありフィクションだと言っても差し支えない。

なので、現代日本のアート界は「才能」というファンタジーを創り出すことで、猜疑心や嫉妬心による争いを避けている。

争いを好む人と、争いを好まない人とでは、原理が異なっている。争いから創造性が生じ、創造性から争いが生じるのであり、闘争心が強い人は創造性が高く、創造性が高い人は闘争心が強い。

争いを憎む人は創造性を憎み、争いを恐れる人は創造性を恐れる。なぜなら一つには創造性の追求こそが争いの源であり、もう一つは争いは一部の「強者」によってなされるのであり、それが大多数の「弱者」を圧迫するからである。

「正しい答えは一つではなく二つ」だとすれば、争いは最も憎むべきものであり、徹底して排除しなければならない。そのためには闘争心の強い者たちを徹底して排除し、その能力を抑えつけなくてはならない。そして闘争心によらない才能のある無害な者を評価し持ち上げるべきなのである。

才能が無い人は努力して能力を勝ち取ろうとし、闘争心が強く危険である。これに対し才能のある人は自身の能力に満足し闘争心が無く安心である。また才能が無い故に努力せず楽に流れる人々も安全であり、むしろそのような人々の安全性のために、才能が無く闘争心に溢れた人を排除すべきなのである。

才能と努力は重要な対立軸であり、それと連動する感覚と知性も重要な対立軸である。実に持って生まれた才能による感覚的なアートは争いを産まず、努力による知的な組み立てとしてのアートは争いを産む。

アーティストとして存在するとは、人間関係としてそのアーティストが存在するのである。AというアーティストとBというアーティストが存在するとして、各自の性質が異なっているのはもちろん、各自を取り巻く人間関係が異なっているのであり、それがアーティストとしての質の違いを決定している。

アーティストの存在にとって、ある種の「弱さ」が強みになることがある。何故ならアーティストは人間関係として社会に存在し、そして人は平和のために弱い人と関係を取り結ぼうとする。争いを避けようとする人は、争いの元となる「強い」人とわざわざ関係を取り結ぼうとする事はないのである。

2008年と2017年

7月9日

@itozaki

うっちぃ@この世すべての強欲(志望)@YinfinitY

「構造主義」を誤解していた: 反省芸術・糸崎公朗blog3 app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/212
わかりやすかったのだが、そもそもこの解釈が合ってるのか僕には判定できないので、教えて哲学に自信ニキという感じ

Retweeted by 糸崎 公朗

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7月9日

@itozaki

糸崎 公朗@itozaki

@YinfinitY 反応が今頃になってすいません。9年も前の記事ですが読んでいただきありがとうございます。改めて自分の記事を読んでみて、自分でその内容に呆れましたが、この頃の記事は信用しない方が良いですwなぜならこの頃の私は入門書ばかりを読んで書いていて、つまりそれは噂話、ヨタ話のレベルに過ぎません

posted at 23:15:45

   

7月9日

@itozaki

糸崎 公朗@itozaki

@YinfinitY 昔の私は哲学や思想の入門書ばかり読んでましたが、入門書には「あの人はこんな事を言っている」「あの本にはこんな事が書いてある」と言う情報が分かりやすくまとめられているようでいで、それらは実質的には二次情報、三次情報の又聞き、噂話の類と変わらず、私はそれに加わっていたに過ぎないのです

posted at 23:21:19

   

7月9日

@itozaki

糸崎 公朗@itozaki

@YinfinitY その後私は方針を改め、プラトンもアリストテレスもフッサールも原著翻訳を読むようになって、そのような「一次情報」から自分の見解を述べるようになったのです。なぜそのような方針転換を行なったかといえば、以前の私は哲学の原著は難しくて自分には読めないと自ら決めつけ諦めていたからです。

posted at 23:28:28

   

7月9日

@itozaki

糸崎 公朗@itozaki

@YinfinitY しかし実際には、「読めない」と思い込んでいた哲学書の原著翻訳本は、自分でも読めたのです。一つには古代ギリシャや古代中国、古代インドの初期哲学は、意外に読むには難しくなく、それでいて本質を深く付いて為になるのです。

posted at 23:33:53

   

7月9日

@itozaki

糸崎 公朗@itozaki

@YinfinitY またフッサールやラカンは確かに難解ですが、分からないままに何年かかけて繰り返し読んでいると、徐々になんとなく分かってくるのです。なので入門書は一見理解への近道のようでいて、実際には永遠に目的地にたどり着けない道であり、私はそこから抜け出す事が出来て良かったと改めて思ってますw

posted at 23:38:55

    

 

エックハルトとヤージュナヴァルキア

https://pbs.twimg.com/media/DEEic5hUQAAGQ9V.jpg

https://pbs.twimg.com/media/DEEic5lV0AAD73f.jpg



昨日で終了の『切断芸術運動展』隣で開催されてた『エピクロスの空き地』展のチラシにどこかで読んだ言葉が引用されてると思ったらエックハルト『神の慰めの書』で、私はヴァンだ一成さんに借りて読み「離脱」の言葉に感銘を受けた筈が忘れていて、これを思い出させてくれた事に感謝しなければならない 。

エックハルト『神の慰めの書』が手元に無いのだが、検索すると「離脱」とはひとつには「被造物からの離脱」として確かに説かれていた事を思い出す。

theology.seesaa.net

 

「被造物からの離脱」に相当する教えはキリストやそれ以前の古代ギリシャ哲学や、古代中国の諸子百家でも説かれているが、私が思い出す範囲で最も見事なのは古代インドの仏教以前の哲学者、ヤージュナヴァルキア殿のエピソードである。

思い出しながら概要を書くと、ある時王様が多数のバラモンを集めて「この中で最も知恵のあるバラモンに金塊を角にくくりつけた牛100頭を褒美のして与えよう」と言った。

すると、バラモンの一人であるヤージュナヴァルキア殿が「それではこれは私がいただきます」と当然のような態度でそれを持ち帰ろうとしたところ、他のバラモン達から「あなたはなぜ自分が最も知恵があるバラモンだと言い得るのか?」と次々に問答を仕掛けられる。

これに対しヤージュナヴァルキア殿はことごとく論破して自身が真に卓越していることが証明されてしまう。

これで分かることは、「被造物からの離脱」とは被造物の拒否ではなく、被造物に「こだわらない」事であり、だからこそ莫大な財産をくれると言われればありがたく頂戴し、なおかつそれに執着しないでおられるなら、それこそが真に「被造物からの離脱」だと言えるのである。

「被造物からの離脱」とは金持ちが財産を捨てること(喜捨)では必ずしもなく、本質においては金持ちであろうが貧乏人であろうがその人のあるがままの状況において誰もが「被造物からの離脱」を行うことができる。これがブッダ以前に栄華を極めた古代インドのバラモンの教えなのではなかろうか。

国立西洋美術館でフォトモワークショップ

【告知】上野の国立西洋美術館にてワークショップを開催します。

C創作・体験プログラム
①「フォトモで楽しむ本館」
参加者が撮影した本館の写真を、講師の制作技法にならって立体に作り上げます。
*観覧券が必要です。
日時:7月22日(土)10:00~17:00
講師:糸崎公朗(美術家・写真家)
対象:一般(高校生以上)
定員:先着15名

申込は下記ページからしていただけますので、どうぞよろしくお願いいたします。
https://www.nmwa.go.jp/jp/events/fun-with-collection.html#fun2017_C

芸術とデザイン

芸術とデザインの違い、というものが自分にはよくわかっていなかったのだが、芸術とデザインでは「善」のあり方が異なっている。デザイン的な善とは「隣人愛」であり、その場合の隣人とは「目の前に存在する具体的隣人」を指すのであり、普遍的な意味での隣人ではない。

芸術とデザインでは「普遍」のあり方も異なっている。デザイン的な普遍とは「隣人愛」であり、隣人愛そのものに普遍性はあるが、「隣人」そのものは目の前の具体的で個別的な隣人を指すのであり、そこに普遍性はない。

デザインというものは、目の前の具体的で個別的な隣人からの「距離」によって成立する。いやそうではなく、そもそも民衆というものが、お互いに目の前の具体的で個別的な者同士で距離を調整しながら相対的に存在している。その関係の中にデザインも存在している。

デザインの卓越性とは、民衆が認識するところの卓越性の反映である。そして、民衆の中において卓越したと言える人物が、確かに存在する。民衆の中で卓越した人物とは、例えば周囲に対する気配りが行き届いていて、そのための大変に高い能力を有している、まるで天使のように良い人がそれである。

『芸術への道』抜き書き3

●芸術家には「材料への感覚」が要求されるわけで、この感覚の鈍い芸術家は、選択した材料を的確に使用することは出来ないし、それを作品の全体性に有効に活かすことはとうてい出来ない。#芸術への道

芸術はいつもその意味内容のためにこそ成り立って来たのであり、これに較べれば形式上の特徴などはすべて色褪せてしまう。表面に現われた美学的な質は作者にとっても、また作品の依頼主にとっても決して第一目的ではなかったし、また究極的目的でもなかった。#芸術への道

モチーフは、造形的に形づくられて初めてその重要な意義を獲得するのであって、それ自身では切り出したままの大理石片と同じ単なる材料でしかない。決定的なのは芸術家がそれから何を創り出すかと言うことである。#芸術への道

偉大なモチーフは必ずしも偉大な芸術を保証しない。偉大なモチーフがそのまま実現されるためには、非凡な形式表象が要求されるのである。#芸術への道

モチーフに生命を与えるのはただフォルムだけである。#芸術への道

一八九一年に没した文化史家グレゴロヴィウスは、歴史家の種類を二通りに分類して、その場に居合せた歴史家と、居合せなかった歴史家とに区別しているが、この画家レッシングは、言ってみれば臨場しなかった歴史家であり、それ故に単なる見せ物しか描けなかったわけである。#芸術への道

美術史の中でモチーフは最重要な意味を担っている。そしてその意味はフォルムの力によって初めて有効になる。そこで、
もしフォルムに創造性がなかったら、同一のモチーフから何故に多様な表現が得られるかを説明することはできない。#芸術への道

芸術におけるモチーフとは何か。フォルムのための材料である。モチーフは、フォルムを通してはじめて明白になり、かつ内容を得るのである。#芸術への道

材料とモチーフはオーケストラで言えば楽器に当たり、これを指揮するのがフォルムである。それらは、フォルムがつくり提示する意味によってどのようにも変化し、また定着するのであって、作品の意味は専らフォルムの力によって生まれるのである。#芸術への道


教育もまたそうしてなされる
縛られることを知らない者に
純粋至高の完成は得られない。
偉大を望む者は全力を傾けること、
制約の中でこそ巨匠は生れ、
規律だけが自由を与え得るのだ。(ゲーテ)#芸術への道

芸術は現実性だけに留まらず、それ以上のものー真実ーを求める。芸術はわざとらしさや、こじつけで為されてはならない。優れた作品は自然で、それ自体の中で調和的でありー純粋である。だが芸術家が形式に熟達することなくしてこの真実と純粋性は成就されない。線と面、立体と空間とに精通しなければならないのだ。もちろんこうした要素に精通しても未だ十分ではない。芸術作品は多声的なものであって、材料に立脚し、次いで例えば宗教とか世俗的なもの等のモチーフを表わし、そして様々な構成要素を綜合的なフォルムの中で満たして行くのである。#芸術への道

芸術作品そのものは単に「確認される」だけでは満足しない。作品のあらゆる筆跡は一つの内的な核心を観るよう指図し、同様に、作品が拠って立つ隠れた規範に留意するよう要求しているのである(ゲーテ)。個別的なものは全体の構成要素としてのみ理解され得るのだ。従ってベツュライブンク「作品の叙述」というものは常に作品の本質を指向しながらアクセントを置いて行かねばならない。作品の叙述は理解行為であって、単なる報告ではない。#芸術への道

ここで言うわれわれの認識とは見て入ることである。見て入ること、は多様な視点に立って初めて可能になる。芸術作品はともかくみな本質的意味と歴史的意味を担っているが、われわれはこの書の中で特に芸術の本質的意味を尋ねてきた。作品を前にしながらわれわれは常に何が真に芸術的であるかを問い、そうすることによって作品をその歴史環境から抽き出し、或いはまた歴史環境を、ほんの手短ではあるが略説してきた。芸術には超時間的なものが現象していた。#芸術への道

個別作品を歴史的なつながりに組み入れて、それを歴史の証として把握すること、つまり人間が常に同じ根本問題と取り組みながら、その都度の歴史状況に見合う固有の解答を見出してきた歴史の証として芸術を理解することも大変大事なことである。人間の存在は、正に歴史から少しずつ浮かび出て来るのであり、人間は歴史の中に、時代から時代へ、文化から文化へと 自己を実現しているのである。#芸術への道

芸術作品との出会い方は決して唯一でない。芸術作品の内的な豊かさが、多様な見方を要求しているのであり、そこには芸術の本質意味への方向性と歴史意味への方向性が同程度に存在し、どちらも欠くことができないのである。#芸術への道

芸術へのすべての道は同じ目的に通じている。何故なら芸術は、人間とは本来何か、そして最も深いところで一体何ものであるのか、ということをわれわれに打ち明けてくれるからである。芸術への道は人間への道である。#芸術への道

『芸術への道』抜き書き2

●芸術は、自然と対置されても確固たる存在を主張するものでなければならないが、それは自然に対して固有な何かを意味してはじめて可能になるのだ。#芸術への道

自己の作品を前にして動揺する画家の姿は洋の東西を問わず真に芸術家のものだ。だから彼らは二年も経てばかつての作品を見て「今だったらあれこれを別に描くだろう。私はもうとうにそれを越えているのだ」と述懐する筈である。多分それは技能が不足であったという自己否定の承認なのだ。#芸術への道

当然ながら、芸術家は形式を会得するために絶えず血のにじむ努力を重ねるものだ。ややもすると、偉大な芸術家にとってはそれはたやすいことだと考え勝ちだが、彼らとて決して例外ではない。例えばレオナルドにしても、着衣や手首のスケッチを何度も何度も描きなおしていたのである。#芸術への道

画家を虜にするのは、何はともあれ先ず線と面、量感と空間である。思想や情感や記憶像が最優先して彼を魅きつけることは手ない筈だ。彼を魅了する世界に最も基本的に関わって来るのはこうした空間的な性質のものである。#芸術への道

 

芸術は空虚な場に存在している訳はなく、一つの具体的な社会の中に在り、その社会は様々な要求をもって芸術家に迫っている。こうしたことは、芸術の歴史を見ると良くわかることであった。#芸術への道