アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

幽霊と共産主義

ヨーロッパに幽霊が出る__共産主義という幽霊である。と言うのはマルクス共産党宣言』の書き出しだが、反省すると結局のところ私自身も共産主義の亡霊に取り憑かれていたに過ぎなかった。

私が物心ついた頃は、全共闘運動などの日本の左翼運動は終わっていて、私も共産主義がなんなのか、ちゃん勉強せずよく知らないままで来てしまっていたが、それだけに、自分では全く無自覚のまま、共産主義的な思考にすっかり染まっていたことが、今になってようやく明らかになって来た。

と言うのも、人は一般に、ろくに勉強しないで自分独自の頭で思考しようとすると、必然的に自分の知らないうちに、既存の思考方法を採用して思考することになる。言ってみれば、人は自覚的に勉強しようとしなくとも、他人とコミニュケーションしながら社会生活を営む中で、必然的に、無自覚的に何かを学んでゆく。

そもそも「考える」とは「言葉を使って考える」ことなので、言葉を他人とのコミニュケーションの中で学ぶと言うことは、思考の方法も含めて学ぶことになる。

つまり学習には無自覚的な学習と、自覚的な学習とがあるが、無自覚的な学習は非反省的で、自覚的な学習は反省的である点に違いがある。無自覚的と非反省的は同義語であって、自覚的と反省的も同義語である。

それは教える側にも同じことが言え、共産主義について自覚的に他人に教えようとする人は、共産主義とは何かを反省的に捉えてそれを他人に教えようとする。そして自覚的にそれを学ぼうとする人は、自分の思考体系を反省的に捉えながら、その中に今学びつつある共産主義をどうにかして位置付けようとするのである。

逆に、共産主義について無自覚的に学ぶ人は、共産主義を学ぶという自覚もなく、それどころか今まさに自分が何かを学んでいるという自覚すらなく、主観的にはただ他人とコミニュケーションしているだけである。

共産主義について無自覚的に教える人も、自分がいま他人に話している内容が共産主義的であるという認識すらないまま、それを相手に伝えようとする。そのように現代においては、共産主義は「共産主義なんか知らないし関係ない」という人たちに、まさに幽霊のように取り憑いていて、私もまた例外ではなかった。

それで私はずっと無自覚的学習だったところ、数年前から自覚的学習に切り替えたのだが、そうなると徐々に自分が無自覚的に何を学び、何に影響を受け思考して来たのかが分かってくる。

そうすると私は共産主義の影響を自分が思っていたレベルをはるかに超えて受けており、ほぼ共産主義の仕方に従って思考していたのである。もちろん私の共産主義的思考は十全ではなく断片的なものに過ぎないが、しかし問題の立て方から解決への道筋まで、驚くほど共産主義的だったのである。

ブリコラージュには二種類の意味があったのである。一つは元の意味としてのブリコラージュだが、これは自覚的に行われる。私もそうだが素人工作が好きな人間は、自覚的にブリコラージュを行い、そのための素材探しを常に行なっている。しかし、思考のブリコラージュは、たいていの場合無自覚的に行われる。だからレヴィ=ストロースは、サルトルの無自覚的な思考のブリコラージュを痛切に批判できたのである。

 

現代人と野生の思考

「生活者」として必要な事は、ブリコラージュの素材となる引き出しをいかに多く持つか、という事だが、現代人の多くが実にこの引き出しの数が少ない。対してレヴィ=ストロースが報告する未開人は引き出しの数が多くサバイバル能力が高い。現代人は「野生の思考」をも失っていると言える。

考えと記号

考えが前に進まないときは、考えそのものがブリコラージュに陥っていて、考えの対象が記号化しそれ以上分解不可能になっている。例えば「芸術が分からない」といった場合の「芸術」や、金儲けの仕方が分からないと言う場合の「金儲け」がそれに当たる。

エンジニアリング思考の場合、例えば「芸術」とか「金儲け」などについて「自分の頭」で考えることはしない。「自分の頭」で考える限り「芸術」にしろ「金儲け」にしろあらゆる事物は記号化し、ブリコラージュ的思考の素材にしかならない。

そもそも「自分」と言う人間は、せいぜい数十年前に、世界というところに「遅れて」やって来たのであり、何かを知っていようハズがないのである。だから「知る」ことは自分に先行する他者から教わることであり、「考える」とは自分に先行する他者の頭を使って考えることなのである。

財産とは何か?人は誰でも裸の赤ん坊として生まれ、そして親をはじめとする様々な「先行する他者」から、様々なかたちとして財産を受け取る。そしてその財産は、自分が死ぬときは全て手放して、世の中に返すか捨てなくてはならない。

 

安心と主張

或云(あるひという)。世の宗門の趣意を、一筋に死後の冥福を祈張ることと思ふは、大なる心得違なり。世界中宗旨の数, 如甚夥多し。其説、千緒万端なれども、概して之を云へば、現在未来に拘はらず、唯安心の地を求るなり。
#福沢諭吉 或云随筆

福沢諭吉先生が述べる如く、宗教に限らず人々が自己主張するのはただ「安心」を求めたいからである。宗教が各宗派によって異なる「主張」になるのはそのためである。宗派が互いに攻撃的になるのは、その根底に不安があるからである。

何故に人々は不安なのか?それは世界に対し不透明な態度で接していると、その手前にとどまることになり、不安が募ってくる。世界に対し透明な態度で接すれば、その向こう側に越えて行くことができ、不安は解消される。

多くの人が不安に苛まれ、それぞれの「巣」に閉じこもる。このような巣は、世間に流通する様々な「記号」を寄せ集めて作られる。私の主張も、そのような「記号」の寄せ集めに過ぎなかった。哲学や思想の「入門書」には、素材としての「記号」が記されている。これはブリコラージュの素材なのである!

哲学書が難しいのは、それ自体がエンジニアリングだからである。それに対して哲学の入門書は、ブリコラージュの素材としての「記号」を提供し、だから「分かりやすい」のである。

一般の人々は一般であるが故に専門家ではなく、だから常にブリコラージュの素材を求めている。素人がブリコラージュしたがるのはひとえに「不安」の解消のためである。

ゲームと儀礼

科学と同じくゲームは構造から出来事を作り出す。従って競技が現在の工業社会において盛んであることは理解できる。それに対して儀礼と神話はブリコラージュ(工業社会はこれをもはやホビーもしくは暇つぶしとしてしか許容しない)と同様に、出来事の集合を(心的面、社会・歴史的面、工作面において)分解したり組み直したりし、また破壊し難い部品としてそれらを使用して、交互に目的隣手段となるような構造的配列を作り出そうとするのである。「野生の思考」p41

ゲームと儀礼。ゲーム的思考と儀礼的思考。有り体に言えば、自分の頭で考えない人は儀礼的な物言いをする。

「言葉が通じても話が通じない」理由の一つが、一方がゲームのつもりで、一方が儀礼のつもりで議論をする場合である。SNSなどのネットマナーは、お互いの書き込みを「儀礼」と暗に認めることで成り立っている。

美術には、社会的儀礼としての美術と、美術史というゲームとしての美術とがある。

専門家と素人

最近、集中的に反省したおかげで、だいぶ分かってきたのだが、私には美術家として気負いがあったせいで、美術に対しかえって「不透明」な態度で接していたのだった。

これに対し後から学ぶようになった哲学に、私は何の気負いもなく、つまり「自分の哲学を打ち立てる」といった余計な思いがなく、哲学に対し自分自身が透明いられたのである。

ところが芸術に関しては、自分は芸術家なのだからと「自分の作品」を作ろうとし、自分オリジナルの芸術コンセプトを打ち立てようとし、それが「非人称芸術」となったのだが、そのおかげで「芸術」と言うものに対し、全く「不透明」に接することになってしまったのだ。

この場合の「透明性」とはレヴィ=ストロースが『野生の思考』で使っていた言葉で、ブリコルールが世界に対し不透明でその向こう側に超えて行こうとしないのに対し、エンジニアは世界に対して透明で、その向こう側を越えようとする、と言うものである。

レヴィ=ストロースのブリコラージュとエンジニアリングの対比は、未開人の思考と文明人の思考というよりも、素人と専門家の思考の違いではないだろうか?

いつの時代に関わらず、素人の思考はブリコラージュ的であり、概念の集合が氷のように固まり記号化し、それら記号の順列組み合わせを変えている。「自明性」とはまさにこのことで、素人の思考ではあらゆる事物が自明化し、その順列組み合わせだけが自明化しておらず、そこに思考の自由がある。

専門家の思考とは、ブリコラージュの素材となる「記号」を分解もしくは融解し、そのようにして概念化する。そしてフッサールは、同時代の哲学者や科学者が専門家なのにも関わらず、素人のように「記号」を分解せず自明的に用いていた事に対し批判していたのである。

そして私自身も、芸術家という専門家を気負いながら、実際には素人の思考に陥っていた。そもそも専門家とはそのように気負うものではなく、自らが透明な態度であらねばならない。でなければ、氷のように凝固した記号を溶解できない。専門家を「気負う」ということ自体、素人の思考だと言える。

私は哲学に対しては何も気負うところがなかったが、もちろん私は哲学の専門家ではない。そうではなく、私は哲学を読むことで、専門家としての思考方法を学んでいたのである。哲学的思考とは「思考の専門家」の思考であり「思考の素人」の思考と対置される。

気負ったり、身構えたり、という態度自体が素人の思考なのである。だから一般の人々は、例えば芸術や哲学といったものに対し「身構える」。その身構えは、確かに自分にも認めざるを得ない。

私は哲学に対し身構えがあった頃は、入門書ばかりを読んでいたのだが、原著を読むにあたって「分からなくていいからただ読めば良い」と人から言われて、それで身構えがなくなったのである。ただ芸術に対する身構えを解くには、今の時間までかかってしまった。