アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

寛容と判断力

これまでの私は「寛容」の心が足りていなかったのかも知れない。物事の「優劣」を判断する上でも、寛容の心は必要である。なぜなら不寛容である場合、物事を本質的な優劣で判断する以前に、自分の乏しい経験からくる「好き・嫌い」「分かる・分からない」で判断してしまうからである。


寛容とは、対象物に対して「良い点」を必ず見つけ出して褒めることである。私の場合も、1日のワークショップでは参加者作品に対し必ず良い点を見つけ出して褒めているが、決して嘘を付いているわけではない。これをすべての芸術作品に対して実行すること。


人はそれぞれに「つもり」が違っていて、自分の「つもり」と違うからといってそれを否定するのではなく、自分とは異なる人それぞれの「つもり」を理解することで、それに沿った「良い点」を見つけ出して認めることができる。これがひとつ「寛容」と言うことである。

つまり大抵の人は、例え悪い結果がもたらされようとも、いや犯罪的なエゴイズムであったとしても、本人の「つもり」としては「良い事をしようとしたつもり」でいたのであり、だからその人の「悪い面」よりも「良い面」を見つけて評価する方が、分析的に物事を見ることができるのである。

持つ者と持たざる者

慢心はなぜ生じるのか?それは一つには「自分の持ち物」を「自分」と混同することによって生じる。人は「持ち物」において平等ではなく「持つ者」と「持たざる者」に分かれており、「持つ者」である自分が「持たざる者」である他者と比較することによって、慢心が生じる。

 

「持ち物」とは何か?例えば豪邸に住んでいるとか、高級車に乗っているとか、そのような「持ち物」を「自分」と取り違え慢心する人は愚かだが、そのことは多くの人にとって分かりやすい。いくら金を持っていても、その「持ち物」自体が「自分」ではないことも明白である。

 

「物」である「持ち物」が「自分」ではない事は、多くの人にも分かるはずである。では「物」ではない「持ち物」の場合はどうだろうか?例えば自分が苦労して勉強して蓄えた知識とか、数々の苦難にも関わらずそれを乗り越えてきた経験であるとか、長年の修行によって身につけた様々な技であるとか。

 

そのような非物質的で精神的な「持ち物」は果たして「自分」なのか? 実は非物質的な持ち物は、物質的な持ち物と同様に「持つ者」と「持たざる者」に分かれるのである。そして「持つ者」が「持たざる者」に対して慢心し得るという点でも、全く同様なのである。

 

人は誰でも赤ん坊という「無」の状態で生まれ、物質的なものも、非物質的なものも、さまざまな「持ちもの」人それぞれにを貯め込みながら大人になり、そこであらゆる意味で「持つ者」と「持たざる者」に分かれて行く。

 

そして人は誰でも死ぬときは、物質的な持ちものも、非物質的な持ちものも、全てまとめて手放さなければならない。つまり全ては他からの「借りもの」に過ぎないのである。

 

結局、「学ぶ」と言うのは「他者」から学ぶのであって、そうして自分が他者から学んで取得した知識も経験も技も精神性の高さも人格力も、自分が死ぬときは全て消え去ってしまう。つまりそれは他者からの「借り物」に過ぎないのではないか?だから死に際しては全て他者へと返却されるのである。

 

いや人が本質的に他者から学ぶのだとすれば、自分自身も他者に対して何らかの「学び」を常に与えているのであり、人は他人に常に何かを借りながら、常に返済し続けているのであり、死の際には全てが返却し終えている、と言えるかもしれない。

 

いずれにしろ、非物質的で精神的な「持ちもの」も含めて全ては「借りもの」であると「自分」切り離すことで、「持つ者」が「持たざる者」に対する慢心を起こすことは無くなる。

つまり、いかなる愚かな人に対しても、自分が慢心を起こすことが無くなる。精神的に貧しい人は「持たざる者」で、精神的に豊かな人は「持つ者」で、そのように人が分かれるのは必然ではあるが究極的には「理由がない」のであり、理由がないことに対し慢心が起きることも無いのである。

 

現在の私は、出来るだけ非物質的で精神的な「持ちもの」を増やそうとしているが、それは以前の自分が「持ちもの」を増やそうとしなかったことに対する後悔と反省があるからである。しかし私の「出来るだけ」には限界があるし、上には上がいるのも当然である。

 

なぜ以前の私は「持ちもの」を増やそうと思っていなかったのに、今はそれを後悔して「持ちもの」を増やそうとするのか?と言えば、究極的には「理由が無い」のである。人の欲望は理由もなく人それぞれで、理由もなく気まぐれに変化する。

 

だから物であっても、お金であっても、社会的な地位や名声であっても、非物質的な知識や精神性であっても、人間はどうしても「持つ者」と「持たざる者」に分かれるのであり、その分布が存在する。そこにいかなる慢心が起きる余地もなく、ただその様を観察し認識するのみであると言える。

 

これはあくまで一般論であって個々の事例はまた別だと言う前提ではあるが、東日本大震災に伴う原発事故について、福島県内の浜通り中通りの被害に遭った世帯は東京電力から多額の補償金を得ているのに対し、風評被害を受けた会津の人々は補償金を突っぱねて耐え凌いだという話を地元の方から伺った。

 

また能登半島は、首都圏から離れた半島で、平地も多いことから原発を建てるのに最高の立地条件で、にも関わらず地元の人々は一致団結して原発を一基たりとも建造させなかった。つまり会津の人も能登の人も、地元意識が強く誇り高い人々は電力会社からのお金を受け取らず突っぱねている。

 

しかし、会津の人も能登の人も、誇りを持っている人は、どのようにしてか誇りを「得ている」。それは東京電力から補償金を「得ている」人と比較して、何ものかを「得ている」と言う点において同じなのである。

 

人は自分が「得たもの」によって変わってしまうのも事実だが、「得たもの」は「得たもの」であり「自分」とは切り離さなければならない。それでは「自分」とは何か?「持ちもの」によって変化し、時に慢心を起こし得るものが「自分」だと言えるかもしれない。

専門性と総合性

カルチャーはサブカルチャーを取り込むことで発展し、サブカルチャーはカルチャーを取り込んで消費する。

カルチャーは代を重ねるごとに芯から腐ってサブカルチャー化する。

サブカルチャーはそれぞれが非本質に向かって多様化する。

カルチャーとは総合性であり、あらゆる専門性は本質的にサブカルチャーではないか?例えば、ソクラテスにしてもアリストテレスにしても、なんの専門家だと言えるのか?

例えば運慶の彫刻は何かの専門性において突出しているのではなく、総合性において突出している。

トマソンとサブカルチャー

赤瀬川原平超芸術トマソン』は、柳宗悦の「民芸運動」との共通点があるように思えるが、赤瀬川さん自身はそれについて書いていないし、民芸運動について知らないのではないか?

 

また赤瀬川さんは自身の超芸術トマソンについて、デュシャンのレディ・メイドとの関連性を述べているが、デュシャンのレディ・メイドと柳宗悦民芸運動とは、コンセプトを考えると無関係である。

 

赤瀬川さんは物事を「梯子」で考えないで、自分がリアルに見える範囲で場当たり的にものを言っているに過ぎない。これはカルチャーではなくサブカルチャーの論法である。

民芸運動とサブカルチャー

「民芸」という言葉は手垢がつきすぎてよくわからなくなっているが、柳宗悦による「民芸運動」というものがあったのである。民芸というのはカルチャーに対するサブカルチャーであり、サブカルチャーをカルチャーと認めさせる運動だったと言えるかもしれない。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/民芸運動

民衆の文化は確かに存在し、これを認めて保存する必要があるのかもしれないが、これはあくまでカルチャーに対するサブカルチャーに過ぎない。

するとカルチャーとは何かと言えば、運慶展で見た運慶の作品がまさにそうで、これは日本独自の文化というだけではなく、古代ギリシャから通じる写実彫刻の流れを明確に受け継いでいて、なおかつその発展として究極の作品たり得ている。

つまり文化とは古代メソポタミアを唯一の発祥として、全て繋がっていると捉える視点から、サブカルチャーとはことなるカルチャーの視点が生じる。

カルチャーとは伝統で、サブカルチャーとは非伝統である。伝統とは何か?と言えば、先人の単なるコピーでは無い。コピー品はオリジナルより劣るが故に伝統を引き継いだとは言えないのである。

伝統と革新は対立概念ではなく、伝統に基づく革新と、伝統を否定した革新とがある。しかし、実は伝統に基づかなくては革新はし得ない。伝統という踏み台に登るからこそ、その上の革新があり得る。

伝統を否定した革新は、踏み台の否定であり、必然的に原始状態に立ち戻ってしまう。伝統を否定した現代アートが原始美術に接近してしまうのはそのためである。

マキャヴェッリによると、革新は伝統に立ち返ることなのである。伝統は、代々引き継いでいるうちに必然的に劣化する。初心が忘れられ、劣化コピーが繰り返され、伝統を引き継いでいるつもりで本質が失われてゆく。そこで革新を引き起こし、伝統に立ち返る必要が生じてくる。

伝統とは梯子を一段ずつ登ってゆくような運動である。運慶の彫刻が凄いのも、古代ギリシア以来の伝統を踏まえながら、それを何段飛びにも進化させているところが素晴らしい。日本という地は文明伝播の最期のどん詰まりの地で、そのような奇跡が度々生じるのである。

マキャヴェッリ的に言えば、伝統の否定には二つの違った意味がある。一つは伝統と言われてはいるが、実質的に伝統では無いものの否定であり、その意味において真の伝統に立ち返る革新をもたらす必要がある。もう一つは伝統そのものの否定で、それは全ての文化的蓄積の否定の意味での革新である。

「全ての文化的蓄積の否定としての革新」には独自の魅力がある。それは安易な方法の自己肯定と結びついている。安易とは効率の良さであり、これが近代特有のスピード感と結び付いている。伝統を受け継ぐには時間をかけた修行が必要だが、伝統を否定するのに時間は不要なのである。

伝統の否定の優越性は、一つには伝統に対するスピードの優越性である。これに多くの人々は酔っているのではないか?私の「非人称芸術」もまさにそれであったのである。

しかし実際に伝統の否定は、新しいものを何も生み出さない。なぜなら高く積み上げた梯子を否定して、皆同じように地べたを這い回っているに過ぎないのである。梯子の高みと比較して、地べたを這い回ることはずいぶん違って見えて、それが「新しい」と錯覚されるに過ぎない。

柳宗悦民芸運動は、梯子の高みを目指したものではない。途中まで登った梯子からふとしたを見下ろしたら、見たこともない世界が広がっていて、それに心を奪われ梯子を降りてきてしまったのである。そして、地べたから梯子の上を見上げながら、こちらの方が革新であると主張しているのである。

岡本太郎の芸術論は、ある意味で柳宗悦民芸運動を引き継いでいる。岡本太郎は伝統を否定し、地べたに降り立って原始的な絵を描きながら「前衛」と称している。一方で太郎の母であるかの子は、伝統の梯子を登ることに使命を感じ、一方で子育てを疎かにし、子供(太郎)の怨みを買うのである。

伝統とは梯子というより登り棒のようなもので、ただ捕まっているだけでは重量に引っ張られて徐々に下がってしまう。だから常に意志を持って上昇してゆがなければならない。この重力に耐え切れない者が地べたに降りて、泥んこ遊びに興じるのである。

原始時代のエリート集団

優劣の問題は素直に、そして真剣に考えなければならない。にも関わらず、近代においては価値の逆転、優劣の逆転の思想が根底にある。これに無自覚に引っ張られると、優劣の判断が正常にできなくなる。

「優劣」とはなにか?を改めて考えなければならない。最も根源的に考えれば、過酷な自然環境にあって劣った個体は生き残ることができない。優れた個体のみが生き残り、子孫を残し、種が保存されて行くのである。また劣った種は淘汰されて、優れた個体のみが生き残る。

どのような生物が優れているのか?と言えば、過酷な状況において生き残った生物が優れているのである。

過酷な状況においては優れた個体だけが生き残る。逆に言えば、状況が過酷でなければ優れてない個体も生き残ることができる。そのようにして安全で安定した環境において生物個体は数を増やす。

自然環境がいかに過酷であるかは、私自身のささやかな自然観察からも垣間見ることができる。私は以前、国分寺市内に残された雑木林に生息するイモムシを数種類採集し、どんな成虫になるか確認しようとしたことがあった。すると育てているイモムシのうち半分以上がガにならずハエかハチになってしまった。

つまり雑木林に生息するガやチョウの幼虫の半数以上が、寄生バエや寄生バチの幼虫に寄生されているのである。現代医学は人体から寄生虫を遠ざけてしまったが、先日の脱北兵の例を見てわかる通り、本来人体にも寄生虫はたくさんいる。

自然環境は外部から襲いかかる目に見える天敵の他に、内部に寄生する見えない天敵が多数存在する過酷な環境なのである。その他に猛暑や極寒や乾燥などの気候変動や、山火事や津波などの自然災害によって、多数の生物が死んでゆく。

このように過酷な自然環境のなかを、文明以前の原始時代の人間は生き延びて来たのである。原始時代の人間は十数人から百数十人程度の血縁集団で生活し、それ以上に人口は増えなかった。原始時代において、弱い個体、劣った個体は自然環境の過酷さに耐えられずに死んでいったのである。

その意味で、原始時代の人間は、エリートの集団であったと言えるかも知れない。現代においてエリートは「試験」によって選別されるが、原始時代のエリートは、生き残った者がエリートであり、優れた人間なのであり、それほど「明白」な事実はないと言える。

人間は最も高等な動物であるが故に個体による能力差も大きい。だから過酷な自然環境を生き延びて来た原始時代の人間は、まさにエリート中のエリートだったのである。

ところが原始時代から文明時代へと移行すると、環境の過酷さが格段に緩和され、食物の供給も農業によって安定し、エリートではない劣った個体も生き残れるようになった。そのような環境変化の中で「エリート」のあり方も変わって来たと思われる。

人間の優劣を見抜くのは難しい。しかし原始時代においては生き残った人間が優れていると言うことはできる。しかし環境の過酷さが緩和され、食物の供給が安定した文明社会において、人の優劣はどう見極めるのか?

一つには互いに喧嘩をさせれば、どちらがより強く、従ってより優れた人間であるかが明らかになる。私はちょっと前、プロレスラーの前田日明がプロデュースした『アウトサイダー』という街のチンピラなどをリングに登らせて戦わせるイベントのビデオを何本か見たのである。

アウトサイダー』の場合、その勝敗はアートコンペの結果に比べて格段に明確で、「主観による違い」が関与する余地が格段に少ない。それでどのような人が強いのかと言えば、単に腕力が強いだけでなく、腕力を扱うテクニックに優れた者が強い。

そして、腕力だけの馬鹿より、知的に作戦を練りながら戦える人の方が強い。喧嘩自慢の街のチンピラより、プロに指導を受けながら地道に練習を重ねた人の方が強い。

結局のところ、街のチンピラがリングに上がって一発でKOされ、その恥辱をバネにジムに通って一生懸命練習して、格闘家として徐々に強くなって行く…という若者の成長物語が、『アウトサイダー』の面白さだったりするのだが。

ともかく人間が素手の暴力で戦ったとしても、腕力だけでなく知力があった方が強いし、人格力が上の方が強い。人格力とは大人であるということで、人格的に子供ではいくら腕力があっても大人には勝てない。大人には精神の強さがあって、子供にはそれが無いから子供だと言われるのである。

それでは『アウトサイダー』の優勝者がもっとも強くてもっとも優れた人間か?と言えばもちろんそうではなく、その上にプロ格闘家の世界があるし、どのように強いプロ格闘家であっても「実戦」においては警察や軍隊の力には及ばない。近代国家において暴力は国家に預けられ一元管理されているのである。

序列と否定

○時間と記憶の問題。常識的には人間に記憶があるのは明白だが、動物に記憶はあるのか?イヌやネコのような高等動物に記憶があるとして、昆虫やアメーバに記憶はあるのか?

認識には時間が伴う。時間を伴わない認識は成立し得ない。視覚的認識は、視覚の変化の認識であって、つまり時間を伴わなければ変化そのものが認識できない。変化を認識するには、変化前と変化後の比較が必要であり、そのために不可避的に記憶も発生する。

つまり認識と時間と記憶とは一体のものであり、どのように下等な動物も何事かを認識する以上そこに記憶が存在する。

人間には過去、現在、未来へと流れる時間が認識できる。それは人間が一生を通じて常に認識し続ける存在であることの表れではないだろうか?


○「序列」について改めて考えなければならない。なぜならあらゆるものに序列があるはずなのに、近代はある意味で「序列の否定」によって成立している側面があり、この「序列の否定」ということ自体が我々にとって自明化し、対象化できていないからである。

「序列の否定」には二つの意味がある。一つは「人は皆平等でなければならない」という完全なる序列の否定。もう一つは「間違った序列の否定」である。

「完全な序列の否定」が不可能であり、その考え自体が間違いであることは、共産主義自体が間違いであることからも明らかである。とは言え、どのような序列も正しいとは限らず、否定すべき間違った序列は、確かに存在する。

我々にとっての問題は、「序列の完全否定」と「間違った序列の否定」のどちらも十分に対象化されないまま、両者が混同されている点にある。

つまり「間違った序列の否定」の根底に、「そもそも序列をつけること自体は良くないが、やむを得ない場合は仕方がない」という思いがある。根底的に「序列」を否定的なものとして捉える感覚が存在する。無自覚的なこと感覚を、まずは対象化しなければならない。

「序列」とはつまり「優劣」であり芸術の見分けの問題である。ところが我々現代人は、無自覚的に共産主義思想のある種の「断片」に囚われていて、芸術における「優劣」の正常な判断ができないでいる。