アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

構築と消費

私は「私の中のサヨク」と戦わなくてはならない。私の中のサヨクとは、戦後から現在に至るまで日本中を覆っているサヨクと同じなのであり、そうしたものを私は敵性認識して戦わなくてはならない。

引き続いて中島義道先生についてですが、私はかつてこの方の書く入門書を片っ端から読んで、その意味では大変にお世話になったし、尊敬もしているのです。しかし今だから言えますが、私が見たところこの先生は「サヨク」なのです。それはこの人生相談を見てもよく分かります。

中島義道先生の人生相談の3にある【小学校低学年の頃から、いつもいつも「どうせ死んでしまう」と考え】ということは著書で繰り返し述べられており、子供にしては哲学的に透徹した認識のようでいて、実に「子供のころの成功体験」に基盤を置くその根底がまず「サヨク」なのです。

続いて人生相談の4では「自然」という言葉を使ってますが、人間の本質を「自然性」に据えることと、哲学の基盤を「子供の素朴な感性」に据えることは共に「サヨク」の思想なわけでして、今の私にはそれが明瞭に見えるのです。

そもそも「哲学者」を名乗る人が、このような人生相談をしたり、哲学の「入門書」を多数執筆することが問題として浮上してきます。つまり大衆向けに書かれた「入門書」それ自体が「サヨク」思想の産物であるのです。

 

哲学の名の下に、大衆にも分かる言葉で人生相談に乗る事自体が「サヨク」思想でなくて何であるのか?

 

大衆にも分かる言葉で書かれた哲学の「入門書」とは、国民の誰もが手に入れることが可能な大衆車、T型フォードやフォルクスワーゲンと同じような「社会主義」の産物であったのです。

 

だから私が物心ついた頃から慣れ親しんだ「サブカルチャー」と言うもの自体も、サヨク思想の産物であったのです。かつて呉智英先生は「左翼」と「サヨク」を区別されてましたが、今となってはどっちも同じではないでしょうか?

 

戦後の日本は実は、現在に至るまで一貫して「日本民主主義人民共和国」だったのではないでしょうか?そう考えると、例えば日本人ならではの「同調圧力」というものも何なのか?も腑に落ちるものがあるのです。

 

戦後日本のアートとは何か?と言えば、「共産主義アート」である、と考えるとこれも非常に納得できるのではないでしょうか?誰にでも理解可能な大衆的なアート、そして誰もがアーティストとして参加できる「素朴な子供の感性」を基盤としたアート、それが日本の「共産主義アート」ではないでしょうか?

 

中島義道生の哲学はそうしたもので、誰にでも理解可能な大衆的な哲学を語り、誰もが哲学者として参加できる「素朴な子供の感性」を基盤とした哲学を説いたのです。ですから大衆から絶大な人気を得ている。岡本太郎が説くアート論と実に同じ構造をしているのです。

 

構造主義的な意味での「構造」を理解しない人は、自覚することなしに「構造」に絡め取られてしまうのです。「サヨク」というのも一つの「構造」でありまして、私はこれを十分に対象化できていなかったが故にすっかりこれに絡め取られていて身動きが取れないでいたのです。

 

だから私は「自分の中のサヨク」と戦って、あらゆるしがらみを断ち切らなければならないのです。しかしこれはかなり難しい戦いです。つまり「アル中患者を治すのは奈良漬けを元の瓜に戻すのと同様不可能だ」という言い方があり、自分の奥底にまで染み込んだものが果たして浄化できるのか?

 

私が敵対するところの「サヨク」の対立概念は何か?詰まるところ社会主義思想とは「消費」であり、これに対するは「構築」である。

 

大衆に基盤を置いた社会は「消費」を旨とする。なぜなら大衆とは短期的視野に於いて原生利益を求め、それは消費へと結びつく。そう考えると日本は聖徳太子の十七条憲法の昔から社会主義の国だったとも言える。

 

とは言え日本には古代より文明としての構築性が存在する。奈良には法隆寺が存在し、運慶や葛飾北斎の作品が存在し、そのような構築性があったからこそ、中国も朝鮮もなし得なかった近代化をなし得たのである。

哲学と左翼

今なら分かりますが、中島義道先生のこれは自分のことを言っておられますね…私も中島義道先生の本は一時期片っ端から読んでましたが、ちゃんとした哲学書を読むようになって「卒業」したのでした。

私が初めて読んだ中島義道先生の本は文庫になる前の『哲学の教科書』だったが、今読み返すとなぜダメなのか?と言えば、中島義道先生は哲学の基盤を「子供の素朴な感性」に置いている。しかもそれは自身が子供時代から一貫して持ち続けている「人間はいつか死ぬ」という直感に基づいている。これは実に岡本太郎『今日の芸術』と同様の主張であり左翼思想そのものなのである。

https://www.amazon.co.jp/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E5%B3%B6-%E7%BE%A9%E9%81%93/dp/4061594818

 

左翼思想は人間の本質を原始的なもの、子供的なものへと還元しようもし、そのことは『共産党宣言』にも記されている。中島義道生の哲学は、岡本太郎の芸術論と同様にその枠内に収まっており、だから「古い」のである。

 

私自身も、実は自分でも知らぬうちに左翼思想に絡め取られた結果「非人称芸術」を主張すたのだが、いまやそう言った「古い」思想から脱却することができたのである。

 

左翼思想は産業革命以降急速に進歩した文明に対する「反動」として存在する。確かに産業革命は行き過ぎた面があり、例えば初期には子供たちを工員として奴隷のように労働させていたのである。

 

文明以前の「原始」の再発見は大航海時代の成果の一つである。それは子供が持つ「純粋さ」の発見とも繋がっている。だがしかし、それを人間の基盤に据える思想はファンタジーでしかない。つまりこの思想は、人類が積み上げて来たものを「不純物」として否定しているのである。

 

このように書き出してみると、自分の中にまだ左翼思想的な感覚が残留していることが分かる。これは悪しきものとして除去すべきであると同時に、良きものへと転化することもまた可能なのである。

充溢と空虚

自分と他人とは何が違うのか?と言えば、人は皆等しく空虚なのである。だから違いと言えば、自分が空虚であることを自覚する人と、自分は充溢していると思いなしている人の二種類とがある。

 

自分が充溢していると思いなしている人も、そのように全く思っていない人も、ともに空虚であることに変わりはない。自己確立している人も、自己がなく周囲に流される人も、ともに空虚であることに変わりはない。

 

自分が充溢していると思いなす人は偶像崇拝者だ。充溢しているものは偶像であり、偶像は充溢している。ところが偶像は空虚であり、空虚だからこそ偶像と呼ばれる。

恣意性と無意識

改めて気づいたのだが、自分は恣意性とか偶然性が何なのかがよく分かっていなかった。それは端的に言えば、現代的にはフロイト的な無意識によって解釈すべきである。だが以前の私は、フロイトの無意識をきちんと理解していなかったために誤解があった。

 

以前の私は、作品が恣意的に作られることに対して恐れがあった。美大を卒業しながら「何を作っていいか分からない」という思いがあったのは、恣意性を排除して、何か必然をもって作品を作ることができないでいたからだ。

 

だから私はフォトモの技法によって「写実」へと向かったのであった。写実技法によって現実の再現をする限り、その意味で恣意性は排除される。

 

では何を写実で表現するのか?その点においても恣意性を排除する必要がある。そしてそのためのコンセプトが「非人称芸術」だったのである。「非人称芸術」とはつまり「偶然の神聖化」であり、神聖化された偶然は恣意性の問題を超越しているのだと措定したのである。

 

言い換えればこれは、純粋な集合無意識を神聖化したのである。もちろん当時はフロイトは読んでおらず、フロイト的な意味での「集合無意識」も理解してなかったが、つまりはそう言うことだったのである。

 

私の「非人称芸術」はフロイト的な集合無意識の言い換えで、これを神聖視したものである。しかしフロイトの無意識の意味は、それが個人の無意識であっても本質的には集合無意識なのであり、その意味で非人称的なのである。

 

芸術が人類的な集合無意識の産物であり、その端末である芸術家によって産み出されるのであれば、「非人称芸術」という概念は完全に無効となる。それとともに私に取っての「恣意性の問題」も同時に解決されるのである。

 

芸術が無意識の産物であるならば、もうその時点で恣意性の問題は解決されている。自分が、より大きな集合無意識の端末であろうとするならば、そのような自分の手によって生み出される作品は恣意性の産物とは言われない。

 

ところが、本来的に無意識を原料として構築された意識を「自分の意識」と見做してそれ以上の集合無意識の流入を遮断してしまうのであれば、その人は必然性を失ってしまうのである。

 

私もそうだったが、多くの人は「才能」を必然の問題として捉えている。才能のある人間はある種の必然性を有しており、才能がない凡人は偶然性に流される。

 

しかし必然性を手に入れるのは持って生まれた才能によってではなく、自分がどれだけ大規模な集合無意識の端末になれるかであり、それは経験と学習によって獲得できるのである。

 

ところが必然性を手に入れるのは持って生まれた才能によってではなく、自分がどれだけ大規模な集合無意識の端末になれるかであり、それは経験と学習によって獲得できるのである。

 

それは私にとっての詩の問題でもあったのだ。詩というものは、芸術として詩が原初的であるにもかかわらず、私には詩が理解できないのであった。それは詩を必然とは捉えられずに、恣意性としか理解できなかったのである。

 

その理由は、つまりその必然性は詩の中にではなく、自分の中に詩を理解するだけの必然性が存在していない、そのことの表れに過ぎなかったのである。

イメージと結果

目に見えるあらゆる事物は「結果」でしかない。素朴な感覚の人間の目には「結果」だけが見えている。実に多くの人々は「結果」だけを見てあらゆる判断をしているのである。

 

目に映るあらゆるイメージは「結果」でしかない。

 

結果だけを見る人は可能性を見ない。原因を見通す人は可能性をも見通す。

 

あらゆる「もの」は「結果」としてもたらされる。あらゆる「もの」を「もの」として見る限り、その人の目には常に「結果」だけが映されている。

原因と結果

 フロイトラカンを読んでいると、人はしばしば結果と原因とを取り違えている、と言うことがよく分かる。と言うよりも、人間は最も根源的なところで結果と原因とを取り違えいる。なぜなら全ての人間にとって、結果だけが無前提に与えられているからである。

 

先にものがあって、それらのものに人間が勝手に名前を付けたのではない。先に名前があって、その後に名前を付けられたものが発生するのである。

 

例えば人間が先に存在し、その存在に「人間」という名前が付けられたのではない。まず「人間」という名前が存在し、その後に「人間」と名付けられる存在が生じるのである。

 

つまり人間が産まれる以前に「人間」という言葉が存在している。子供を産む前のお母さんは、その子供が産まれる以前から「自分は人間を産む」という事を知っている。つまり人間が産まれる以前に「人間」という言葉が存在している。

 

芸術家が「芸術を作り出そう」と意志したその時点では、作品としての芸術は未だ存在しない。つまり芸術というものの存在よりも先に、「芸術」という言葉が存在する。

 

新約聖書の「初めに言葉があった」という言葉が示すように、人間があるよりも先に「人間」という言葉があり、芸術があるよりも先に「芸術」という言葉があった。

「人間」という言葉が無いのにどうやっても人間は人間を産むことができるのか?同じように「芸術」という言葉が無いのにどうやって芸術を産むことができるのか?

つまり人間とはまず何よりも先にに人間」という言葉であり、芸術とはまず何よりも先に「芸術」という言葉なのである。

 

人間は、目に見えるあらゆるものに対し、次々にその名前を言い当てて行き、そのようにして人間の世界認識は成立する。というこの理論自体が原因と結果とを錯誤しているのである。

 

まず人間の認識は、言語によらない認識、動物に共通のアフォーダンスによる認識に多く依拠している。つまり、言葉とそれが指し示すものの順序は、場合によって異なっているのである。

 

人はあらゆるアフォーダンスに名前を付ける。例えば「近い」「遠い」と言うような名前である。いやこの場合のアフォーダンスはあらゆる動物が共通して利用する動物的アフォーダンスである。動物的アフォーダンスは言語に先立って存在する。

 

…いやしかし、これも結果と原因を取り違えている可能性がある。少なくともあらゆる人工物においては、はじめに言語が存在する。

 

もっとシンプルに考えれば、人間の認識世界は、言語による認識世界と、言語によらない認識世界とが重なっている。言語によらない認識世界は、人間や昆虫、単細胞動物などを含むあらゆる動物に共通している。

 

はじめに言語があり、その後に言語によって名付けられたものが生じる。ところがあらゆる人間にとっては結果が先に与えられているのであり、始まりとしての言語は隠されてしまっている。

人類史が700万年と言われているのに対し、人間の寿命はせいぜい百年に過ぎない。つまりあらゆる人間が世界に遅れて参入しているのであり、だからあらゆる人にとって結果だけが先に与えられ、それに先立つ言語はことごとく隠されている。

 

結果は原因を覆い隠す。例えば人が作る機械は機構という原因を覆い隠している。人体をはじめとする動物の身体も、外見という結果によってあらゆる原因が覆い隠されている。芸術作品も、結果としての完成された芸術作品によって、あらゆる原因が隠されている。

 

結果によって隠された様々な原因の最深部に、原因としての言語が隠されている。そして、ものの名前が一種類でないように、原因のしての言語も一語だけではないのである。

無意識の主体

posted at 03:38:52

彦坂尚嘉先生からラカンの『エクリ』を借りて冒頭だけ読んだら、ちんぷんかんぷんで取りつく島もない…と言うほど分からなくもない!もちろん「分かる」とは言い切れないですが。

ラカンは『エクリ』冒頭で、「シニフィアン連鎖の自己主張」および「無意識の主体」という言葉を使っている。意識の主体はこの「私」だとして、無意識の主体とは?…それはラカンが言うように中心から離れた場所にある。

 

ところで絵画の遠近法に基づけば、中心(私)から周辺部に離れるに従って見えるものは小さくなって行く。しかし「無意識の主体」といった場合、それは中心(意識の主体としての私)から周辺部に離れるに従って逆遠近法的に大きくなってゆく。まるで懐中電灯で照らされた影のように離れるほど大きくなる

 

それは意識とは「私の意識」であるのに対し、無意識とは集合無意識であり、だから「無意識の主体」は「私」よりも大きく、「私」から離れれば離れるほど「無意識の主体」は巨大化してゆくのであり、究極的には「神」になる。