アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

Facebookと哲学カフェ

「哲学カフェ」って言葉、最近目にするようになって何だろう?と思って調べてみたら、フランスの哲学者マルク・ソーテさんが1990年代に始めて、それが世界各地に広まったのですね。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マルク・ソーテ

広まったのは、マルク・ソーテさんの著書『ソクラテスのカフェ』がきっかけだそうですが、私もつい最近、プラトンによるソクラテスの対話篇『テアイテトス』を読んでいたのでした。

ソクラテス古代ギリシャを代表する哲学者ですが、自分では本を書かずに、ギリシャの街アテナイを徘徊しながら、色々な人に哲学的な「対話」を持ちかけ、その問答を弟子のプラトンが「対話篇」と言われる書物に書き残しているのです。

その一つ『テアイテトス』の中で、ソクラテスは知性溢れる若者のテアイテトスを相手に、「私が持っている“産婆術”によって、君が自分で新しい考えを産み出す手伝いをしてあげよう」と言って、色々と問いかけるのです。

マルク・ソーテさんが始められた「哲学カフェ」もソクラテスの対話篇に倣って、偉い先生が自分の知っていることを一方的に教えるのではなく、誰もが持っている「哲学的問題」について語り合うことで、各自の考えをより深めたり広げたりするのを目的にしているものと思われます。

と考えると、Facebookのは「哲学カフェ」の機能を十分に果たし得るメディアであることに気付くのです。

もっとも本物のソクラテスはかなりしつこい人で、あまりにしつこすぎで市民に嫌われ死刑になったような人ですから、哲学カフェの気軽な雰囲気とはちょっと違うのですね(笑)

なぜ理系のエリートたちがオウムに入信したのか?

先日死刑が執行された元幹部をはじめ、理系のエリートたちがなぜオウムに入信し、凶悪犯罪に手を染めたのか?という疑問についてです。

これは、各自のウィキペディアを見て確認できるのですが、下記にオウムの科学系の元幹部、村井秀夫、遠藤誠一土谷正実、林郁夫、の経歴を短縮して書きだしてみました。

彼らは実は、もともと理系の優秀な人であったと同時に、科学を超えた精神世界や超能力に興味を持っていて、それで麻原彰晃の本に出会ってオウムに入信しているのです。

これは最近の私の「詐欺師の理論」の通りで、麻原はもともと「騙されやすい人」を引き込んだに過ぎないのです。

ですから疑い深い科学者を無理矢理洗脳して信者にしたわけではなく、もとよりそんなことは不可能であり、だから浅原は洗脳できない相手を殺害してしまったわけです。

オウムに入信したエリートたちは、精神世界に興味を持っていたとは言っても、入信前は「普通のいい人」であり、まさか自分が殺人をはじめとする凶悪犯罪に手を染めるなどとは思っておらず、そこに至る過程に「洗脳」があったわけで、その意味で多くの人にとって「他人事」だとは言えないと私は思うのです。

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村井秀夫

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/村井秀夫

子供の頃は内向的でSF少年であり、勉強は得意で体は丈夫という、テレビの影響で超能力や精神世界、仙道、ヨガなどに興味があり超人願望があったという。また、1972年に友人の兄がトラックへ飛び込み自殺する光景を目撃している。
「歩いて通えるから」という理由で大阪大学理学部物理学科にトップ合格しX線天文学を専攻。大阪大学大学院理学研究科修士課程修了、理学修士となる。
神戸製鋼に入社し金属加工の研究に携わるが、会社にも家庭にも生きがいを感じなかった。その頃、麻原彰晃の著書『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などを読み、1987年4月、早速オウム大阪支部を訪れる。感銘を受けた村井は翌日に会社に辞表を提出し、オウム神仙の会に入信。

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遠藤誠一

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/遠藤誠一

母は世界救世教の信者。高校2年のとき愛犬が病気になったことから獣医を志し、帯広畜産大学獣医学科に進学したが、分子生物学に関心を持ち遺伝子工学の研究をはじめる。この頃、父を癌で亡くしたこと、獣医は飼い主の依頼があれば犬猫を毒殺することもあると知り、将来の目標を獣医から研究者に変えた。
1986年、京都大学大学院医学研究科博士課程に進学。
しかし「生命の本質は遺伝子なのか」という疑問が生まれ、魂の存在など精神世界に興味が向かうなか、麻原彰晃の著作『超能力秘密の開発法』に出会う。理系の人間として否定してきた神秘体験を経験したことで確信を持ち、1987年3月、宗教団体という認識は持たず入信。

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土谷正実

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/土谷正実

高校2年生の時にイオン化傾向に興味を抱いて化学を勉強し始め、学年トップになる。1984年に筑波大学第二学群農林学類へ進学。高校時代から憧れていたラグビー部に入部。しかし、早々に重傷を負い5月末には退部を余儀なくされて、自暴自棄に陥り酒浸りの生活を送る。漫画『ゴルゴ13』のワンシーンを思い出し「体を傷つければ心の痛みを忘れられる」と自ら胸を果物ナイフで40cm切りつけた。「肉体的苦痛により精神的苦痛が和らいだ」「この気持ちを合理的に説明するのは宗教だ」「新たな価値観を掲示する団体が登場したら所属しよう。それまでに得意な化学の能力をより伸ばしておこう」と考えた。
卒業後は同大学院化学研究科へ進学。指導した教授は「発想力豊かで、将来国際的な研究者になる」と高く評価した。博士課程に進んだがオウムにのめり込んで研究室へ顔を出さなくなり、1993年に正式に中退した。

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林郁夫

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/林郁夫_(オウム真理教)

幼少期から思いやりのある子といわれ、人助けがしたくて医師の道を選ぶ。慶應義塾大学医学部卒。
臨床医として癌などの死病の患者と接するうちに、現代医学や科学が乗り越えられない「死」に対して深く考えるようになる。
1977年、桐山靖雄の本に感化され、阿含宗の正式な信徒となり、約12年在籍したが、自身の修行の成果が出ないと悩んでいた。
1987年、書店で麻原彰晃の著書と出会う。信者のヨーガやツァンダリー、インドの伝統医学、オウム食などを用いた修行メニューによる具体的な成就記事などに強く衝撃を受け、しだいに傾倒していく。
1990年、妻子と共に一家4人で出家信者になり、全財産8000万円、車2台を布施として寄付した。

洗脳はメイドインチャイナ

「洗脳」についてあらためて調べてみたら、この言葉を最初に使ったのは朝鮮戦争時代の中国共産党で、捕虜となったアメリカ軍兵士に共産主義を信奉するよう「洗脳」を施していたとのことで、この言葉が意外に新しいのと、メイドインチャイナであることがちょっと驚きです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/洗脳

これについて1951年エドワード・ハンターによって『洗脳 中共の心理戦争を解剖する』が刊行され、「洗脳」の言葉が世界的に知られるようになったとのことです。
この本は古すぎでAmazonにもありませんでしたが、目次のデータだけありました。

http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/…/307721.html

同書によれば、

>(中国共産党による洗脳)は戦争である。心理戦ともいわれるが、「脳の戦争」と呼ぶ方が適切である。武器は身体に対して行われ、対象者を無能力にし、破壊する。一方で、精神に対する工作では、(それまでに持っていた)信念を転覆させてコントロールする。脳の戦争においては、対象者の考え方や、感情、気持ちを征服することが、最終的な勝利となる。

とのことで、これは古代中国の兵法書孫子』に記された「兵は詭道なり(兵法の基本は騙しの術にある)」に通じるものがあり、また現代における「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」に見られるような「情報戦争」にも通じるものがあります。

そもそも軍隊というものは、大勢の兵隊をできるだけ規律正しく動かせる方が強いのであって、そのために古来より「洗脳」は不可欠のテクニックであったはずです。

洗脳について、もっと分かりやすい実例は下記のページにあります。

洗脳。その恐ろしい10の手口と実体(カラパイア)
http://karapaia.com/archives/52217061.html

洗脳のテクニック

私は特に「洗脳」の分野に詳しいわけではないのですが、しかしつい先日、その「洗脳のテクニック」の一端を垣間見る経験をしたのでした。

それはもうブロックしてしまった、私のFacebookコメント欄に出現した「荒らし氏」ですが、どうも私に「洗脳のテクニック」を仕掛けたのではないか?と後になってふと思えたのでした。

この「荒らし氏」は突然私のコメント欄に現れて、私の意見を頭ごなしに否定しながら、いわゆる「マウンティング」を仕掛けてきたのでした。

しかし私はそうした挑発に乗らずに、逆にこの「荒らし氏」に対して、彼の経歴についての質問をしてみたのでした。

そうしたところ、彼はいくつかの宗教セミナーに参加して、そのなかで「洗脳」される経験もしたそうで、しかし自分には洗脳は利かなかったと明かしてくれたのでした。

その後も彼の私に対する「マウンティング」は継続して、私はのらりくらりと交わしながら面倒くさくなって、このままヘンな人と関係を深めてもヘンに恨みを買って最悪刺し殺されるかも知れないと思い、ブロックさせていただいたのでした。

それで思い返すと、彼は自分が学んだ「洗脳のテクニック」を私に仕掛けようとしていたことに、思い当たったのでした。

とは言えこれはごく単純なテクニックで、実際に私には利かなかったし、Facebookのコメント欄でそれを仕掛けるのも難しかったかも知れません。

ただ彼と一対一で、あるいは複数の人達によって、気の弱い人がそれを仕掛けられたら、充分に「洗脳」の効果はあるだろうと思えたのでした。

それでその「洗脳のテクニック」ですが、まず相手の言うことを頭ごなしに全否定して、相手が反論してきたところでまたそれを全否定して、と言うことを繰り返すのです。

この場合、相手を否定するための言葉であれば何でも良くて、「理論的整合性」は全く無関係なのです。

理論的整合性を考えて、相手の矛盾を指摘しながら反論すると、レスポンスに時間がかかってしまうし、そもそも相手を「洗脳」するのに整合性も何も関係ないのです。

先の投稿で指摘した「ああ言えば上祐」の問答と同じく、嘘を適当に並べればぽんぽん言葉が出てくるわけで、そんな調子でどんどん相手を否定して追い詰めてゆくわけです。

これは戦争映画や漫画でも描かれる、軍隊に新兵が入ってくると、教官が新兵に質問し、その答えをことごとく全否定することでアイデンティティを崩壊させ、そして「軍人」に仕立てていく仕組みと基本的には同じです。

ただ、軍隊の場合は洗脳と言うより「社会的通過儀礼」として必要なことで、それを悪用したのが「洗脳のテクニック」だと言えるかも知れません。

そしてこの悪用されたところの「洗脳のテクニック」は、実のところ「効く人にはものすごく良く効く」けれども「効かない人にはまったく効かない」のがポイントです。

ですから本当の意味で巧妙な詐欺師は、「洗脳されやすい人」をうまく見つけ出すところから仕事を始めるわけです。

これはちょっとヘンな例えですが、私は昆虫写真家の海野和男先生の影響で「チョウの飛翔写真」というのを撮ろうと思って、カメラを持って飛んでいるチョウを必死に追いかけ回して、全く撮れないという時期があったのです。

ところが、海野先生の小諸アトリエにお邪魔して、一緒に写真を撮る機会に恵まれたことがあって、そうして海野先生の撮り方を見ていると、先生自身はほとんど動かずに、飛んでいるチョウをパッと見事に撮影されているのです。

そこで私はチョウの飛翔写真のコツは、闇雲にチョウを追いかけるのではなくて、まずは「撮りやすいチョウ」を見つけてそれを撮ることにあると、悟ったのです。

ですから詐欺師にしても、「詐欺に引っかかりにくい人」を相手にしても時間の無駄ですから、「詐欺に引っかかりやすい人」を見つけることから始めるのです。

「詐欺に引っかかりやすい人」を見つける方法はネット上ではいくらでもあって、スパムメッセージもその一つです。

つまり、普通の人が引っかからないようなバカバカしい内容の詐欺メールに何らかの反応をしてしまう人は、「カモ」として詐欺師のデータベースに登録されてしまうわけです。

そう考えると件の「荒らし氏」は洗脳を仕掛ける相手を全く間違えているわけで、かなり不気味で怖ろしいと言えるのです。

 
 

常識と支配

常識とは何か?哲学をやって分かることは、人は面白いほどに常識に捕らわれる。ごきぶりホイホイのネバネバした粘液に捕らえられているにもかかわらず、「私はこの家に住んでいる」と言い張る、常識に捕らわれた人はそのようなものである。

デスモンド・モリス『マン・ウォッチング』を読んでいるが、被支配者層はどれほど支配者層の悪口を言って非難しようとも、基本的には被支配者層の存在を望み、支配されることを望んでいる。そして同様に人びとは「常識」というものに支配されたがっている。

常識は人びとによって作り出される。それは人びとによって支配者が作られるのと同様である。人びとは支配者に支配されることを望み、常識に支配されることを望み、その望みを叶えられるようなものを共同で、つまりは同調圧力によって作り出すのである。

大多数の人びとの「他者に支配されたい」という欲求が、「文明」を成立させている。同じように大多数の人びとには「常識に支配されたい」という強烈な欲求が存在する。それを別の言葉で表現すれば「同調圧力」と言うことになり、文明とは一面では同調圧力によって成立する。

同調圧力」はさまざまな弊害があるとしても、基本的に分明とは人びとの同調圧力によってその形を保っていられるのであり、同調圧力が解体されれば国家も解体されてしまうのである。

福澤諭吉の『脱亜論』『朝鮮独立党の処刑』など読むと、江戸から明治へと近代化を成し遂げた当時の日本国は「同調圧力」を高めることでそれを成し遂げたことが分かる。これに対して同時代の朝鮮や清国は、国内が社会階層や派閥によって分裂し、近代化できるほどの「同調圧力」を高めるに至れなかった。

さて常識であるが、常識とは実に「神」の位置を占める。常識そのものが、一つの宗教なのである。なぜならデスモンド・モリスによれば、人間は人間に支配されることに飽き足らず、人間を超えた存在である「神」を作り出し、その「神」に支配されることを望んだのである。

人びとはとにかく飽きもせず常識的言説を至るところで繰り返しなぞる。その、常識を繰り返しなぞるという宗教的行為によって、文明としての外壁が維持され続けるのである。そこには何のクリエイティビティも存在しないが、むしろクリエイティビティが不要の領域が確かに、そして広範に存在する。

人びとは基本的に変化を求めず、変化を憎み恐れ、変化の兆しを出来るだけ早期に発見しこれを摘み取ろうとする。そのいっぽうで近代人は、常に変化を望んでいる。人は変化を望まず、同時に変化を望んでいる。そして芸術家にとって、人びとがいかなる変化を望み、いかなる変化を望まないか?が重要となる

大枠として、人びとは支配者に支配されたがっている。つまり支配者が変化を望まなければ人びとも変化を望まず、支配者が変化を望めば人びとはその変化を受け入れる。しかしこの場合の支配者とは、あくまで人びとによって望まれ、人びとによって認められた支配者でなくてはならない。

人びとによって認められた支配者とは何者か?多くの人は「支配者のディスプレー」を示したものを「支配者」として認めるのである。これもデスモンド・モリス『マン・ウォッチング』に根拠がある。『老子』第一章に「多くの人は物事の表面しか見ない」と書かれたのはこのディスプレーを示している

デスモンド・モリス的に見れば、大衆に「芸術家」として認知されている人はみな一定の方法によって「私は芸術家である」というディスプレーを人びとに示している。つまり大衆にとって重要なのは「かたち」であって、表面的な「かたち」だけしか認識できないのが大衆なのである。

オウム事件の死刑執行について

www.sankei.com

 

ついに麻原彰晃とオウム幹部6名の死刑執行だそうです。私がみたところでは、日本という国家の中に、オウムという小国家が生まれて、それが転覆を図ったというものです。そしてオウムとは、ある意味で日本のいう国を映し出す「凸面鏡」だとも思いました。つまりオウムは異様な集団であった一方で、日本社会の縮図的な側面もあったように感じたのです。
しかしもちろん、日本国が歴史ある「国家」としての骨組みがキチンとしているのに対し、オウム真理教の骨組みは想像界=イメージの産物でしかなく、麻原彰晃もちゃんとした対応ができずに訳の分からない事ばかり言いながら、最後はダンマリを決め込んでいたという事です。もし麻原が、死に際にソクラテスやキリストのような立派な態度を取るなら、状況は変わっていたはずですが、そうしたことが全くできない人に過ぎなかったのです。もっともそんな人でもすぐ死刑にすると伝説化する可能性がありますから、ボロを出させるために死刑を長引かせた、と見ることもできるわけです。ともかく、ようやく一連の事件が、ひと段落ついたわけです。

短絡と認識

ネルソングッドマン『芸術の言語』によると、絵画は、つまりは写真は、対象物の再現ではなく、対象物への「指示」である。何も写ってない写真とはなんの指示もない写真であり、だからこそ「芸術」と誤解されるのである。

確かに人間がその肉眼で現実を見るときも、実は「現実そのもの」ではなく、指向性に従って指示された反射を見ている。というのも同じ現実を目の前にして、動物種によって「何が見えるのか」が違うし、それは同じ人間同士でも異なっているのだ。

人はなぜ「写真は現実の再現である」とか、「自分は現実そのものを見ている」などと誤解をするのか?それは、そのように言語的な「短絡」がなされているのであり、かつ実生活に支障がないからである。言語には実生活を円滑にするための「短絡」の機能がある。

あらゆる動物は、種に応じた短絡的認識機能を有している。しかし本能の大半が失われた人間は、この生存に必要な短絡的認識機能を、「言語」を使って自前でプログラムできる。従って言語には、本質的に短絡の機能が備わっている。

絵画における遠近法は、その絵画の「正確さ」の現れではなく、その絵画に投入された「知性」を表している。従って、機械的に遠近法が描写される写真において、遠近法そのものが「知性の現れ」と受け止められることはない。