アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

才能と境遇

人間社会は本質的に「病気」を抱えている。つまり「文明」とは、原始時代には病気でしまうような人間も、治療して保護して生かしている。私のように未熟児で生まれた子供も、保育器によって生き延びさせる。そのようにして文明は、必然的に「病的な者」「弱い者」を大量に抱え込むのである。

人間には運と不運とが存在する。そして「文明」とは、本来は不運によって死すべき人間を救済するためのシステムである。不運によって死すべき人間を救済し、 文明を運用するための「資源」として活用する、そのような同義反復性が文明に備わっている。


「才能」と言うことを考えると、これには二重に「運」が関わっている。一つは生まれながらの才能の有る無しは、明らかに運と言えるものである。もう一つは良い導き手に出会うことで、この出会いという運がなければ、いくら生まれながらの才能があっても、これを伸ばして活かすことはできない。


しかし私の中学の同級生「田中くん」はなんの訓練も受けずに写実絵画が上手く、ニーチェなど哲学書を読みこなす天才だったが、才能に恵まれた運だけに満足し、指導者に出会う道を断ち、結果として全ての才能を活かせず枯らしてしまった。すなわち精神病院に安住し世捨て人になったのである。

文明は、「自分自身の無能さにうんざりするような人間」を大量に産み出した。文明とは大量の無能者を救済するシステムであり、そのように救出されたわれわれ無能者は、自分の無能を嘆くのである。

他人を同情によって救済すると恨みが生じる。これは世の必然である。文明の世にはこのような怨念が常に渦巻いている。

弱者が同情によって助けられると、弱者は自分を助けた「強者」に嫉妬して恨みを抱く。すなわち自分が助けられた側にいるというその事実の中に、自分が何も持たない弱者であることが示されている。

弱者は「何も持たない」からこそ弱者なのであり、だからこそ「持てる者」であるところの強者によって救われる。ところがその「恩」はたちどころに忘れられ、「持てる者」に対する「持たざる者」の恨みが生じる。しかしこの「恨み」の感情もたちどころに内面化され意識の上からすっかり忘れ去られる。

つまり無意識の作用とは、忘却の産物なのである。あらゆる事物が意識の上から忘却され、無意識だけが全てを記憶しているのである。そしてこの無意識はあらゆる人々の会話の中に、あらゆる書き言葉や芸術作品など人類の文化遺産に含まれている。

少なくとも現代においての「強者」とは、一つには才能に恵まれている事と、もう一つは境遇に恵まれている事である。つまりいかに才能に恵まれていたとしても「良き指導者との出会い」のような境遇に恵まれなければその人は「強者」に目覚めることはないのである。

またいかに恵まれた境遇に産まれようとも才能に恵まれなければ、例えば金持ちの息子がただ放蕩するように、その人は「強者」とは言えないのである。

ところで「持って生まれた才能の無さ」という不運はどうすることもできない反面、「恵まれた境遇」という運の良さをより多くの人々に与えることは、文明の進歩によって可能になるし、特に産業革命以後の近代文明はそれを強力に推し進めてきたのである。

だから近代文明はテクノロジーの進歩を背景にして、大量の「良い境遇に産まれた者」を生じさせたのである。つまり現代においては「才能に恵まれずに境遇に恵まれた者」が大量に存在する。

それと同時に、そこまで大人数ではないとしても、多くの「才能に恵まれた者」も救われることになったのである。

そして「才能と境遇に恵まれた者」と、「才能に恵まれず境遇に恵まれた者」と、「才能にも境遇にも恵まれない者」と、この三者の間の激しい戦いが繰り広げられている。

多くの人は「才能とは持って生まれたものだけ」だと誤解しているが、実際には才能とは「持って生まれたもの+訓練」の賜物なのである。すなわち持って生まれたものがあっても訓練しなければその才能は開花しないか、開花しても「時の花」ですぐ萎れる。

だから「何の努力も必要としない天才」は原理的にあり得ない。そして訓練は本人の努力がなければない得ないが、努力できるのも持って生まれた才能のうちである。加えて「恵まれた境遇」すなわち例えば世阿弥のような「偉大な師」との出会いがある。

ニーチェよれば凡人は天才に嫉妬され悪者に仕立てられて排除される。その結果どうなるか?世に「才能がある」と認められる人の大半が、実のところなんの才能もない凡人で占められるのである。凡人は天才の才能を憎み、凡人の才能に親近感を持って愛するのである。

ニーチェ『道徳の系譜学』

遅ればせながらようやくニーチェが読めるようになったのだが、これは恐ろしい本! 『道徳の系譜学』第一論文の途中までしかまだ読んでいないのだが、戦慄すべき内容にあらためて驚いてしまう。こんな本が翻訳されて出版されるのだから、今の日本はつくづく「平和」だと言えるかもしれない。

ニーチェの指摘するところによると、人間の最大の不幸は、それは人間はごく一部の優れた人間と、大多数の凡庸な人間とに、どうしても分かれてしまう、と言うことである。いやそれは、人類史的に考えれば「文明」に特有の現象だと言える。

 

なぜなら文明以前の原始状態を考えてみればわかるのだが、自然環境には常に淘汰圧が働いていて、剥き身で自然状態にさらされた人間は、そのうちの弱い者は常に淘汰され、一定以上に数を増やすことができない。

 

つまり、原始時代の人間は、数十人から百数十人程度の血縁集団による「群れ」の単位で生活していたと考えられるが、その小集団の「群れ」とは、自然の淘汰圧に耐えて生き残った「少数のエリート集団」だとも言えるのだ。

 

人間は原始時代は「少数のエリート集団」として生活していた。しかしある時、人間は自然環境の中に城壁で囲まれたシェルターを作り、農業を発明して食物の安定供給を行い、「文明」を築き上げるようになった。

 

すると、その新たな人工的環境の中では、自然の淘汰圧が格段に減少して、本来なら死んでしまうような「弱い人間」も生き延びることができるようになり、人口はそれまでの原始状態に比較して飛躍的に増加するようになった。

 

この「文明」になって飛躍的に増加した人間のその増加分は、本来の自然環境では生き残れないはずの「弱い人間」なのである。そのようにして「文明」と言う環境においては、原始時代から存続する「ごく少数の優れた人間」と、「大多数の凡庸な人間」という構成による人間集団が出来上がるのである。

例えば私自身は未熟児で生まれ保育器で育ち、母乳アレルギーのため脱脂粉乳で育ったのうな子供で、本来の自然環境であればいち早く淘汰されていたような「弱い人間」であり、同時に自然の淘汰圧に打ち勝つ力のない「凡庸な人間」だとも言えるのだ。

 

そのような理屈で考えても人間は不可避的に「ごく少数の優れた人間」と「大多数の凡庸な人間」に分かれるのであり、それがニーチェオルテガが示した人間の決定的な不幸の原因であり、それは前者にとっても後者にとっても不幸であり、救いようがないのである。

 

今の日本の状況もそうなのだが「文明」においては私のような凡庸で劣った人間が圧倒的な多人数で存在し、ごく少数の優れた人間が存在する。しかしもし、少数の優れた人間のみで構成された「原始生活」を行う集団と、文明国が争うならば、当然ながら文明国の圧勝となる。

 

なぜなら文明国の成員の大半は自然の淘汰圧に耐えられないような劣った人間ではあるものの、それらの人々はごく一部の優れた人間に教育され率いられている。だから優れたエリートのみで構成された原始生活集団に圧勝できるのである。

哲学と商売

良いものを売ろうと思ったら「売るスキル」を身に付けなければならない。つまりそれはどんな粗悪品でも人に「買いたい!」と思わせるスキルである。人は必ずしも「良いもの」が理解できるとは限らず、良いものを欲しがるとは限らない。だから良いものを売るスキルと粗悪品を売るスキルは同一なのである。

 

優れた絵描きがどんなものでも描けるように、優れたセールスマンはどんな商品であっても売ることができる。優れた絵描きに「描けないものはない」ように、優れたセールスマンに「売れないものはない」のである。

 

ものを売るということは、本質的に人を騙して売る、ということである。売買の対象になるのは本質的には「真実」ではなく「虚偽」である。もし売買の対象が「真実」であるならば、一切の広告やセールストークが不要のはずだが、実際にはそうではない。

 

人は金によって「真実」ではなく「虚偽」を買いたがる。それは金そのものが虚偽だから、それで買う商品も虚偽でなければ釣り合いが取れないのである。

 

例えば、骨董屋で買った骨董の壺が「本物」であったとしても、それは本質的には「偽物」なのである。なぜならその本物の壺を買った人は、それによって「偽物の満足」を得ているからだ。何かを買って満足することは、本質的に「自分の死」をごまかす虚偽に他ならない。

 

商売の本質とは、人々の死への恐怖を紛らわせることにある。

 

本質的に「本当に良いもの」と「多くの人が買いたがるもの」は異なっている。だから一つの考えは、本当に良いものを理解できるごく一部の人に、その商品を売ればいい。

 

例えばキリストには十二人の弟子がいて、ソクラテスの臨終に立ち会った弟子もそれくらいの人数だったか、ともかくその数の顧客で商売を成立されることはできる。

 

しかしこの方法の商売にはリスクが伴う。一つは顧客が金持ちで、商品を高く設定しなければ成り立たない。もう一つは人間は本質的には飽きっぽく、いつまでも顧客であり続けるとは限らない。それは自分自身も同じで、いつまでも「本当にいいもの」を供給し続けるコンディションを保てるとは限らない。

 

自分のレベルが劣化するのは自分の問題として、問題は顧客である。自分の劣化は自分が修行することで克服できるが、他人をコントロールすることは本質的にできない。

 

それに何より「本当に良いもの」を理解できる人が金持ちとは限らず、むしろ貧乏人が多いとも言えるのである。なぜなら本当に良いもののその価値は「金とは無縁」だからである。これは哲学的な問題で、本当に良いものとは哲学的価値があり、哲学の価値は金とは無縁なのである。

 

哲学は金を生み出さない。経済哲学というものがあるとしたら、それは哲学的な立場から「哲学でないもの」「哲学に反するもの」を生み出し「哲学への裏切り」としてそれを実行するものとなるはずである。

意識と観念

人間の精神に「無意識」の領域があることを示したのはフロイトだが、無意識がない人間は存在するのか?これを反省的に考えると、私が美大時代に絵を描こうとしても描けなくて画家への道を断念したのは自分に「無意識」が存在しなかったからだと考えることができる。

それは、当時才能があった同級生との比較で分かったのだが、才能がある友人たちは、その人自身の人格を超えて、素晴らしい絵を描く。つまり優れた作品は、作者の人格とは関係がなく、それを超えた「無意識」によって生み出されると、そのように観察できたのである。

しかし当時の私は自分の内にそのような「無意識」を見出すことができず、そのために何も描くことができなかったのである。そのように悩んでいたところ、私は赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」のコンセプトに出会い、そして自分の才能=無意識に頼らない作品制作を思い立ったのである。

 

そのようにして、自分がアーティストとして活動して数年経って振り返ると、学生時代に「才能がある」と思われた友人たちはことごとくアーティストにはならずに、その才能は枯れ果てて普通の人になってしまっていた。それは別の言い方をすれば、無意識との接続が切れてしまったのである。

 

私の最近の認識では、無意識とはフロイトが『モーセ一神教』で述べたように本来的に集合無意識なのであり、それはラカンが指摘するように、人間が共通の言語によって精神活動を行うこととダイレクトに関係している。

 

言語に「個人言語」があり得ないように、無意識も「個人の無意識」はあり得ず、その本質は集合無意識なのである。となると、個人の意識に集合無意識が作用するということは、個人の意識が集合無意識に接続されることと同じなのである。となると、意識が無意識に接続されていない場合も考えられるのだ。

 

再び自分を反省的に考えると、果たして私のフォトモをはじめとする作品制作は、無意識との接続をシャットダウンしたものであったのか?が疑わしくなる。むしろ意識的に無意識との接続を諦めたことで、別のかたちで無意識と接続する回路が開かれたのではないか?

 

確かに私は、フォトモの技法を思い付いたその直後から、かなりの短期間でフォトモの製作法のあらゆる要素について理解したのである。そのような総合的な理解の仕方はまさに無意識との接続のなせる技だと言えるかもしれない。

 

振り返って考えると、人間は若い時期に才能がパッと花開くことがあり、そのような無意識との接続が、自分にも訪れていたのかもしれない。しかし世阿弥が述べたように、若い人の才能は「時の花」でしかなく、程なくして枯れてしまうのである。

 

私は実に、学生時代の「才能がない」状態と、フォトモを作り始めてからの「才能がある」状態の二つを体験しているからよく分かるのだが、才能がある状態ではただ無意識に身を任せておけば作品はどんどん制作できる。これに対し才能がない状態の作品制作は観念的になり、つまらない結果に終わる。

 

つまり、無意識が自分だけの無意識ではないように、意識も自分だけの意識ではない。そのどちらもが「言語」であり、共有物なのである。だから無意識に接続できない人は、意識と接続することになるのだが、この「意識」とは世の中に流通する目に見える形の「観念」として存在するのである。

 

人が無意識と接続しない場合は観念と接続する。そこで観念的な人はありきたりなことを言い、ありきたりな作品を作り、そんな自分を学生時代の私は嫌悪していたのであった。

 

観念とは何か?人間以外の動物は本能によって行動するが、本能とは天然に設えられた観念だと言える。そして動物としての本能の大半が失われたヒトにおいては、その本能に相当する観念が、言語というツールによってプログラムされているのである。

 

そう考えると、確かに「観念的にしか物事を考えない」と言える人が存在し、その限りにおいてその人に「無意識は存在しない」と言えるかもしれない。それは先に述べたように、私自身が無意識と接続できずに観念だけで考えて身動きができない時期があり、だからこそそう思えるのだ。

 

動物に無意識がないとすれば、人間の子供に無意識があるかどうかも疑わしくなる。確かに子供の言うこと観念的でありきたりではあるが、それは子供は大人が示すさまざまな観念をコピーしながら成長する、その過程にあるからだと言える。

 

つまり無意識が言葉であるなら、人が言葉をある水準以上に覚えなければ、無意識との接続もあり得ない。従って、言葉を覚える途上にある子供は、無意識に接続するだけの言葉を持たないと考えることが出来る。

ブッダとフロイト

ブッダのことば』(中村元訳/岩波文庫)再読したが、紀元前300年ごろに編纂された最古の仏典は、フロイトとそれを引き継いだラカン精神分析と極めて内容が似ている。

ブッダは己の精神を「観察しろ」と説いているが、精神とは「欲望」であるとも説いている。己の欲望のあり方をよく観察してこれを制御することで精神の安定が得られると言うのがブッダの教えだが、これは全くもってフロイトラカン精神分析に他ならない。

フロイトは『精神分析入門』冒頭で、精神分析をマスターするにはまず自分を精神分析しなければならないとして、自分の夢分析をして見本を示している。つまり精神分析とは、健康な医者が病気の他者を他人事のように治療するのではないところを理解しなければならない。

つまりフロイトラカンが前提にしているのは、人間は誰もが精神病で健康な人は誰もいない、と言うことで、だから医者が自ら自己分析する必要がある。それで患者は医者に任せきりで受動的に治療を受けるのではなく、医者の助けを借りながら自己分析を行わなくてはならないのである。

フロイト精神分析とは薬を投与することなく、人間に潜在的に備わる自己治癒能力を引き出す行為であり、その潜在能力、自己治癒能力とは「言語」の機能に基づいている。だが現実的には、自らの言語機能を観察してこれを制御できる人はごく一部に限られる。なので実際には薬物治療が広く行われる。

「人は誰もが精神病で健康な人は誰もいない」と言うフロイトの前提に立てば、薬物治療はもちろん、たとえ精神分析をしても精神病を完全に治療することはできない。ところがブッダの説く「悟り」とは、完全なる精神治療を示しているのである。

ブッダのことば』に示されたように、怒りを完全に制御し、愛欲を完全に断ち、執着を完全に消滅させ、妄想を完全に晴らすことは常人には不可能であるように思えるが、そのような「悟り」が達成されるなら、精神病の治療は「完全」になされるのである。

しかし結局のところ『ブッダのことば』に限らずあらゆる哲学や宗教は「人は誰もが精神病である」ことを前提にその治療を目指していると言えるかもしれない。例えば『旧約聖書』の神様はなぜあんなにも怒りっぽいのか?と言えば「怒りの感情」は神様が預かっており、だから人は怒ってはならないのである

これは国家と人民の関係と相同的なのだが、国家は人民から「暴力」を預かって軍隊や警察を擁し武器を蓄えている。だから人民は暴力を振るってはならないし、武器を所持してはならない事になっている。怒りの感情を神に預け、暴力を国家に預けるならば、人はそれだけ「健康」に近づくことができる。

仏教とファンクラブ

実は昨日、仕事で数年ぶりに浅草の浅草寺に行ったのですが、いま読み返してる最古の仏典『ブッダのことば』と比較して、世界観があまりに違いすぎて「これは何なんだろう?」と考え込んでしまったのでした。

ともかく、浅草寺は日本人はもちろん外国人観光客でごった返して、あたかも世界中から浅草寺に向かって人が押し寄せてくるかのようです。

浅草寺の建物は大きくて立派で、参拝する人は皆うれしそうにしています。

一方、『ブッダのことば』は、ブッダの入滅(紀元前383年 : 中村元説)の後にしばらく口伝によって伝えられたそのことばを、のちの時代に書き留められ編纂されたもので、これより前に遡る仏典は存在しないとされています。

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この『ブッダのことば』によると、ブッダはシャカ族の王子として生まれたにもかかわらず、出家をして家を持たない生活をします。

ブッダは家を捨て、家族も捨て、財産も捨て、贅沢な楽しみの全てを捨て、人間に備わる「自然な欲望」にことごとく逆らいながら「さとり」の境地に達するのです。

そのようにブッダの教えは大変に厳しい個人修行であり、その通りに実践するのは非常に困難で、とても一般の人に勧められるものではありません。

そこで、初期仏教を個人しか救済できない「小乗仏教」として批判するかたちで、一般民衆を含む多くの人々を救済する「大乗仏教」が出現し、発展していったのです。

そして、6世紀に中国から朝鮮経由で日本にもたらされたのは「大乗仏教」で「小乗仏教」は伝えられておらず、だから浅草寺も当然のことながら大乗仏教のお寺なのです。

このように立派な浅草寺にあらためて驚いてしまうのですが、なぜなら『ブッダのことば』でブッダは出家して家に住むこと自体を否定してますから、当然ながら「立派なお寺」の存在も認められるはずがないのです。

また、ブッダは日本のお坊さんと同様頭を剃っていますが、りっぱな袈裟などは身に付けず、最低限の粗末な衣服で済ましています。

さらに仏像や仏画などを拝むこともなく、そもそもブッダは色や形あるものに対する「目の楽しみ」そのものを否定し、抑制せよと説いているのです。

これに対して浅草寺をはじめとする日本のお寺は、建物大きく立派で、お坊さんはきらびやかで立派な身なりをし、仏像や仏画が礼拝物として納められています。

そして浅草寺を訪れる大勢の礼拝者もそのほとんどが、仏教の厳しい修行をしているとはとても思えないような一般の人たちなのです。

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そのように見ると初期仏教と日本の仏教は全くの別物で、なぜそんな違いがあるのか?についてあらためて悩んでしまったのです。

そこでふと閃いたのですが、これは「野球選手とファンの関係」のようなものではないか?ということに思い当たったのです。

野球選手を熱心に応援するファンは、その人自身が野球選手であるわけではありません。

厳しい訓練をして野球の技を磨くのは野球選手自身ですが、それを応援するファンはあくまで普通の人たちで、そのような厳しい訓練をして特殊技能を身につけたりはしないのです。

しかし、自分にできないことができる野球選手を応援することで、自分自信も元気になって、自分なりの仕事を頑張ったりできるようになるのです。

つまり初期仏教『ブッダのことば』とは、野球で言えば「野球選手のなり方」の本であり、これに対して後に成立した大乗仏教は「野球選手のファンクラブ」よようなものではないか?ということに気づいたのです。

日本の浅草寺をはじめとする大乗仏教は「ブッダのファンクラブ」だと解釈すると、あらゆる事柄の辻褄が合います。

ブッダのファンクラブだからファン自身は修行しなくていいし、ファンクラブだから建物は大きく立派で、内装はきらびやかにしたほうが、よりたくさんのファンが集まって、みんなでブッダを応援することができるのです。

そして自分にはとてもなし得ない行いをしたブッダを応援することで、自分自身が元気になり、また幸せになれるのです。

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そして同じことは、キリスト教にも当てはまるのです。

実は『新約聖書』を読むと、キリストが生きていた時代にキリスト教の「教会」は存在しなかったし、またキリスト自身はボロをまとって遍歴しながら人々に教えを述べ、当時のユダヤ教の司祭が立派な衣をまとって威張っているのを批判しているのです。

ところがのちの時代のカソリックは立派な教会を建て、内部を絢爛豪華に装飾し、司祭は立派な身なりをして威張っており、キリストの教えにことごとく背いているかのようです。

しかしこのカソリックも、キリストの「ファンクラブ」だとすれば、実に納得ができるのです。

キリストのように自ら十字架に架けられるような苦しみは、誰もが受けることはできませんが、そのようなキリストのファンとなって、ファンクラブを結成し、みんなで応援することにこそ意味があるのです。

するとオウム真理教とは何だったのか?

それはつまり麻原彰晃とは仏教のいちファンクラブの会長に過ぎなかったのに、自ら教祖を騙ってファンを先導して謀反を起こしたと、そう考えることができるのです。

ブッダによるデカルト批判

古代インドの最古の仏典『ブッダのことば(スッタニパータ)』(中村元訳/岩波文庫)を読んでいたら、下記の一節があって驚いたのですが、

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九一六 師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

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これは明らかにデカルトの「我思うゆえに我あり」の批判になっているのです。

デカルトが「我思うゆえに我あり」と記した『方法序説』が出版されたのが1637年で、ブッダの生没年が紀元前463年 - 紀元前383年(中村元説)ですから、ブッダデカルトより2000年も前に「我思うゆえに我あり」に気付いて、しかも「そんなのは〈迷わせる不当な思惟〉に過ぎない」と批判しているのです。

「我思うゆえに我あり」すなわち「我は考えて、ある」の何が不当なのか?はまず実際に『方法序説』を読めばわかります。

この本の後半でデカルトは、人体の血液が循環するメカニズムについて詳細に述べていますが、当時のヨーロッパではまだそれが解明されていなかったのです。

それでデカルトは「考え」を働かせて、「血液の循環は、心臓で高温加熱された血液の熱膨張による」と言う説を延々と披露します。

しかしこの理論は科学的に「間違い」なのは明らかで、つまりデカルトは人体をよく調べもせずに、自分が思ったこと、考えたことを「空想」で述べたに過ぎないのです。

このような「空想」は、いかに精緻に理論を組み立てても、現実に的中しない以上、虚しいものです。

しかし精緻な理論を組み立てられると、いかに事実から外れていたとしても、多くの人はつい騙されてしまうのです。

さて、ブッダは先の言葉に続いて

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九一七 内的にでも外的にでも、いかなることがらも知りぬけ。

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と述べていますが、つまり「考える」より先に「知る」ことが大事で、これは今の言葉で言えば「リテラシー」です。

つまり、情報化社会と言われる現代には様々な情報にあふれ、それらの情報をきちんと読めば様々なことを「知る」ことができ智慧が身につくのです。

最古の仏典『ブッダのことば』が日本語訳で読めるのも情報化社会のおかげで、何しろこの最重要経典は、江戸時代までの日本には輸入されて来なかったのです。

これに対し、情報をきちんと収集せず、あるいは情報を生半可に読んだ挙句に、自分の頭による考えを巡らせるのは、あらゆる間違いの元なのです。

仏教は一般的には宗教ですが、近代以前の宗教は哲学と未分化で、特にこの『ブッダのことば』は哲学書としても大変に優れていて、現代日本人にも当てはまるような普遍的問題を扱っているのです。

 

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