アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

文明と宗教

「宗教」についてさらに分かってきたのだが、まず先日、東京国立博物館で見た『快慶・定慶』展について。一般に「運慶・快慶」と並び称される鎌倉仏師の二人だが、それ以前に同じ東博で見た『運慶展』の運慶と、今回見た快慶とそして定慶とは、文字通り雲泥の差があったことが確認できた。

 

快慶は(そして定慶も)確かに上手いのには違いがなく、人物像としては非常にリアルで、特に写真のように人の表情の一瞬を切り取ったかのような生き生きとした表現は、見事だとしか言えない。

 

しかし快慶があくまで「人」を表現しようとしているのに対し、運慶は明確に「人を超えた超人」を現しているのが実に凄いのであり、この差は歴然としている。『運慶展』で私が見た運慶の彫像は、実物の人間のリアリティを超えて、さらに「その先」を表現しようとしており、その点に圧倒されるのである。

 

つまり運慶と快慶とは、いや運慶とそれ以外の慶派の仏師たちとは、たとえ技術的に同等であってもそれ以外の「何か」が違うのである。そしてその何かとは「宗教」であり「信仰心」であろうと直感したのである。

 

いやそもそも運慶も快慶も仏師であり、彼らが彫ったのは芸術作品ではなく宗教的な礼拝物であり、「芸術」とは宗教的な要素から切り離された「純粋芸術」を指すのであり、日本には明治になって西洋からもたらされた概念で、それ以前の日本には存在しなかった…などという「俗説」を信じる人もいるだろう。

 

あるいは、「芸術」や「美術」という言葉はARTという外来語に対して明治になって作られたので、江戸時代までの日本に芸術も美術もなかった…という俗説も同様で、それらの認識は間違っている。

 

なぜなら美術史では「ギリシア美術」「エジブト美術」「キリスト教美術」などという言葉が普通に使われており、それらの作品は当然のことながら宗教的な礼拝物なのである。

 

つまり物事を本質に立ち返って考えようとするならば、美術作品とは本来的には宗教と不可分な存在であり、そのことを運慶の作品は改めて思い起こさせてくれた。いや運慶と快慶の比較によって、そのことが改めて対象化されたのだった。

 

われわれ近代人は忘れてしまっているが、そもそも芸術の根底に宗教が存在するのである。いや芸術だけでなく、そもそも文明の根幹には宗教がある。宗教なくしては文明は成立せず、宗教は文明とともに常に存在する。

 

宗教とは何か?その定義はなかなか難しいが、一つには「文明」が成立するために必要な、各自に内面化された倫理観やマナーは、明らかに宗教の産物である。

 

私の友人で海外青年協力隊の仕事で南米のホンデュラスに赴任した人がいるが、その友人の話ではかの国の国民はおしなべて倫理観もマナーもなっておらず、そうしたものが定着ない地域というのは確かに存在するようである。

 

これに対して日本には、日本に特有の、というより「文明」を成立させるために不可欠な、その意味で普遍的な倫理観やマナーが確固として存在する。

 

文明とは原始時代までの血縁による「群」をはるかに超えた大人数の人々が一つの都市に暮らしながら、自然の脅威から身を守り、食物を生産し分配するシステムだと言えるが、そのような「赤の他人」同士がトラブルなく暮らすには相応の倫理観やマナーが不可欠なのである。

 

この文明に必要な倫理観やマナーを、宗教を抜きにして無神論的に、完全に合理主義として考えようとすると無理があることがわかってくる。合理的に考えれば、法を犯していない限り、誰にも迷惑をかけず、誰も見ていないところで倫理観やマナーに反する行いをするのは構わない、ということになる。

しかし実際には多くの人が、他人が見ていないシチュエーションであっても「良心に基づいた」「キチンとした行」をするもので、それが「内面化」ということである。このような内面化なくして、理屈で考えた合理性だけで「文明」というものを支え切れるものではないのである。

 

だから現代日本においても、多くの人が「無宗教」を自称して特定の宗教を信仰していなくとも、その人が自らの倫理観やマナーで自らを律しようと常にしているならば、その意味での「宗教」なり「信仰」なりが、その人の内に存在していると言って、差し支えないのである。

 

実に今の時代に「宗教」というものを考えると、「キリスト教」とか「仏教」などと言った特定の宗教を信仰するのは、ちょっと話が違うのではないかと思うのだ。そのような私の「思い」は明確なものではなかったが、最近になってようやく見えてきたものがあったのである。

 

それはつまり近代以前と以後では「宗教」のあり方が違っているのである。近代以前は、交通が未発達なので人々は基本的に自分たちがいる土地に縛られている。すなわち中世ヨーロッパの多くの人々にとって宗教と言えば「キリスト教」を指すのでありそれ以外は存在しなかったのである。

 

いや実際にはイスラム教もユダヤ教もあるいは土着の宗教もあったかもしれないが、いずれにしろその地域や時代に固有の宗教を絶対的なものとして信仰し、それに縛られていた。

 

しかし産業革命が起きると交通網の発達に乗って情報網が発達し、ヨーロッパに日本や中国やインドの宗教がもたらされ、日本にもキリスト教はもちろん、それまで日本に入ってこなかったインドの初期仏教などがもたらされるようになった。

 

つまり現代の日本において、宗教を信仰しようと思ったら、まず「仏教」とか「キリスト教」とか「幸福の科学」などの“選択肢”が存在するのである。その選択肢は近代以前には存在せず、キリスト教の家に生まれた人は基本的にキリスト教一択なのが近代以前だったのである。

 

さてそのような選択肢を前にして、「では私はキリスト教を選択しよう」とか「私は仏教を選択しよう」などと決定するのは、どうも違うような気がするのだ。

 

私は自分が美術家だと言うこともあって、美術と不可分とも言える宗教全般に興味があって、キリスト教にしても仏教にしてもその他の宗教にしても、それなりに独学で勉強してきたのである。しかしだからと言って、そのうちどれか一つの宗教を選択して信仰するというのは、どうも話が違う気がするのだ。

 

そこであらためて気づいたのだが、現代において宗教や信仰は、本質的に「抽象化」されているのではないだろうか?先に示したように現代日本人の多くに宗教心、信仰心は見られるものの、それは「仏教」とか「キリスト教」などのように特定化、具体化がされずに抽象化されているのである。

 

これもあらためて気づいたのだが、マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と近代資本主義の精神』を読んで、同時に京セラ会長の稲盛和夫さんのビジネス書などを同時に読むと、近代資本主義というものそれ自体が一つの「宗教」として機能していることに気付くのである。

 

いやヴェーバーによると、近代資本主義の精神からは、その元となったプロテスタンティズムの信仰心は抜け去ってしまったとされているが、僭越ながら私が見たところではそうではなく、近代資本主義の精神そのものが、抽象化された信仰心を形成しているのである。

 

そもそも『プロテスタンティズムの倫理と近代資本主義の精神』という書物自体に、ヴェーバーその人の非常に篤い信仰心が現れているように私には思えるのである。つまりこの本でヴェーバーは、学問としての倫理と誠実さに基づいて、かなり慎重な帰納法を駆使して論を進めている。

 

同時にヴェーバーは、勝手な思い込みや決めつけによって杜撰に論を展開するような、言ってみれは「学問にとっての不信心者」に対し折に触れて苦言を呈しているのである。

 

だから近代資本主義の根幹に、キリスト教由来の信仰心が存在すると言うヴェーバーの指摘は、「文明」の本質から鑑みて全くもって正しいと言えるのだ。そしてその指摘は、ヴェーバー自身の信仰心に由来する真摯な学問的な態度とも重なる、というのがこの本の真髄でもあるのだ。

つまり芸術の根幹には宗教が存在し、学問の根幹にも宗教が存在する。なぜなら文明の根幹に宗教が存在するからである。それでは商売はどうなのか?と言えば、実は事情がちょっと異なる。ヴェーバーが指摘するように、商売そのものは古代から存在し、プロテスタンティズム以前にも資本主義は存在した。

 

良く知られるように、古来からユダヤ人は商売熱心で、それ故に差別されていたくらいなのである。しかしヴェーバーによると、ユダヤ人の商売熱心は「近代」資本主義を生み出すには至らなかった。

 

なぜか?と言えば、ユダヤ人は教義によって金儲けや金貸しを「禁じられてはいなかった」、だからそれらに従事することができた。しかしだからと言って、ユダヤ教が金儲けや金貸しを「推奨」しているわけではなかった。

 

つまりユダヤ人の商売は宗教的な例外として「宗教の外部」で行われていた。これに対してプロテスタンティズムの精神は、宗教としての中心的な信仰心を資本主義の中に折り込んでしまった。そのようにして資本主義そのものが宗教化し、文明の根幹をなす宗教となったのが近代資本「主義」なのである。

 

だから私がこれまで読んでこなかった稲盛和夫さんのビジネス書を読んだり、キミアキ先生のビジネス動画などを見ると、彼らがいかに「宗教者」として生きているかがよく分かる。

 

稲盛さんにしてもキミアキ先生にしても、まず「社長」と言われる人たちに向かって話をしているのが特徴である。そして共通しておっしゃることは、社長業は決して楽ではなく、誰よりも長く働いて休みもとらず常に人一倍勉強して努力する存在なのである。

 

だからネットに出回っている情報商材の謳い文句にあるような「楽して儲ける」というような思想とは全く異なっている。社長とはまずひたすら稼ぎを増やし続けようとする存在だが、同時にそのための度量を惜しまず、そのために全人生を捧げる覚悟のある人を指す。

 

社長になるような人は、能力面においても、それ以上に精神面において「特別な人間」であり、そのような社長が「普通の人々」である従業員を養いながら、なおかつ世の中に広く役立つような尊い目的のための仕事を成そうとする、つまりそのように文明の形成に寄与するのが「社長」という存在なのである。

 

しかしいかに稲盛さんやキミアキ先生やその他の社長さんのあり方が信仰心に篤い宗教者のようだとしても、この方たちが直接に宗教を語ることはもちろん決してない。なぜなら今の時代はそのように宗教が抽象化されているからである。

 

現代の抽象化された宗教、それこそが「無宗教」と呼べるものではないか?実はあらためて調べると「無宗教」と「無神論」は別の概念なのである。

 

無神論とは積極的に「神」の存在を否定する思想であるのに対し、無宗教は神の存在を一概に否定しないものの特定の宗教への信仰をしない、消極的で保留的態度である。

 

しかしどうも現代の「社長」と言われる人々をみると、この「無宗教」の精神にかなり積極的に突き動かされているように思えてしまうのである。

 

さてここであらためて「宗教とは何か?」を考えてみたいのだが、ヴェーバーを読むと、とにかく近代以前のプロテスタントは「予定説」という現代の我々からみてもかなり珍妙な説、それこそ脅迫神経症とも言える理論を本気になって信じて、それに縛られて一生を終えていたのである。

 

ちなみに予定説とは、神様は人がそれぞれ死後に天国へ行くか地獄に行くかをあらかじめお決めになっており、しかもその決定は人間には知ることが出来ず、その運命を変えることはできない。だから人は自分が死後に天国へ行けることを確信するために、神の意にかなった正しい生活を送らなければならない。

 

…と、そのように荒唐無稽な強迫観念を生きていたのである。それはスペインに滅ぼされるまでアステカ帝国の人々が、太陽の落下を恐れて神に生贄を捧げ続けていたのと本質的に変わりはない。

 

ともかくレヴィ=ストロース的に言えば、各時代の各地域におけるそれぞれの文化の人々は、それぞれにお互いが荒唐無稽で珍妙と思えるような世界観を生きているのである。

 

なぜそのような状況になるのか?それを根本に遡って考えるならば、人間とは本質的に自分が何のために生まれてきたのか?どのようにして生きていけばよいのか?を全く知らないでいるのだ。

 

それは全くアンパンマンの歌そのものだが、さすがやなせたかし先生の作詞だけあって、人間の本質が鋭く捉えられている。人間は「本能が壊れた動物」だとも言われ、なおかつ自己意識がある。だから「なぜ生まれたのか?どう生きるのか?」という悩みも生じる。

 

いや環境が厳しく生きるのに忙しければ、そんな余計なことを考える余裕はないかもしれない。しかしレヴィ=ストロースの調査では、ある未開部族は食物や薬として有用な植物を細かく分類して生活に役立てると同時に、全く有用性のない爬虫類も精密に分類している。

 

つまり人間は少しでも暇ができると何をやっていいのかが分からなくなり、爬虫類の分類などの余計なことをつい始めてしまうのである。まして文明人の大半は、厳しい自然環境では本来生きられなかった人々であり、生まれてくるはずのなかった人々なのである。

 

そのように本来的に「余計な存在」である大半の「文明人」は、なおさら「何のために生まれ、何をしていいのか」が分からない。そこでそのような人々の疑問に応える形での「宗教」が生じるのである。

 

稲盛和夫さんやキミアキ先生のような「社長」たちが、飽くなき金儲けを追求しようとするのは、究極的には合理的理由は存在しない。あるのは「何のために生まれどう生きるのか?」という疑問に答えを与える「無宗教」への篤い信仰心で、それは現代文明の根幹をなす「主流としての宗教」の系譜なのである。

 

 

二つの世界と二つの正しさ

正しい答えは常に一つではなく二つある。なぜなら世界は二つに分かれているから。

 

つまり文明は必然的に二つの世界を作り出す。そこに二つの異なる正しさが生じる。

 

文明は必然的に支配者と被支配者、管理者と被管理者、強者と弱者、能動的な者と受動的な者、など様々に名付けられるような「二者」を生み出し、その二者にとってとそれぞれに異なる二種類の「正しさ」が生じる。

 

我々はそれぞれに「逆さま」に異なった正しさの世界を生きている。ある者たちにとって「正しい」とされる同じことが、別のある者たちにとっては「間違い」とされるような、そのように正しさが逆さまな二つの世界が重なっている。

 

私がこのところ入れ込んでいる「事業者向けチャンネル」のYouTuberタナカキミアキ先生は、この二分した正反対の「正しさ」をよくご存知で、だから「ここは事業者向けチャンネルです」とことわって番組を放映されている。https://youtu.be/AHZjacip9Y4

 

 

このキミアキ先生が動画の講義で盛んにおっしゃっている「勉強」と言うことも、それは「一方の正しさ」を示しているに過ぎず、だからキミアキ先生も「勉強」をあくまで事業者や、デキル社員あるいはデキルことを望む社員にしか求めない。

 

だから「正しい答えは一つではなく二つ」の原則に従えば、「勉強」は「努力」は正しくで善だとされる一方で、同じことが明白に「間違い」であり「悪」なのである。

 

ここは大変に重要なことだが、世界には正反対に異なる善悪の軸が存在する。これをきちんと透徹して理解しないと、まさに善悪を見誤ることになる。

 

一方の文明にとっての「普遍的」価値基準として、勉強や努力は明白に「悪」であり徹底して排除すべきものである。それはそもそも文明は何のために生じたのかを考えればわかる。文明は厳しい自然環境から逃れて皆が楽をして幸せに暮らせるように築いたもので、そのようにして進化し、進化しつつある。

 

もちろん何事も理想通りに実現しないとは言え、なるべく苦労せず、ストレスなく、人生を送ることができれば、「文明」の在り方としてそれこそが「正しい」と言えるのだ。

 

だから文明の本義として子供のうちにイヤイヤでも勉強をするのは仕方ないにしても(そうでなければ文明人としての基本が身に付かないから)、大人になってまで勉強なんぞする必要は全く「ない」と言えるのだ。

 

 

大人になってまで、苦労して嫌な勉強をする必要なんかない。嫌な勉強から解放されることが、大人の特権であり、そうでなければ子供の頃我慢して学校に通った意味がない。

 

また、自分が苦労した親が子供に苦労をさせたくないと思うのが「自然」であるように、人は可能であれば「苦労しない」に越したことはない。だから要らぬ努力も勉強もしないで済むに越したことはなく、そのようにして現代文明は進歩してきたのである。

 

ただしこのような、勉強が善か悪かの二分した正反対の価値観は、あくまで二つの「ビット」であって、このビットの組み合わせによって無限のバリエーションを生じる。逆に言えば多様に見える現象も、二つの単純なビットに還元できるのである。

 

例えば、一口に「勉強がしたい」と思っている人のうちでも、その「程度の差」と言うものが存在する。すなわち、自分の全人格を賭けて学問を極めようとするのか?会社を黒字にしさらに経営規模を拡大するために勉強するのか?社会人として必要な一般教養を身につけるために勉強するのか?

 

あるいは自分の趣味領域を極めるために勉強するのか?などなど、それぞれに「勉強は善」「勉強は悪」の正反対のビットが、異なる割合で配合されている。例えば「会社を黒字にしたい」と思って勉強する人は、その目的を超えてまでは「勉強をしたくない」と思っている。

 

これはあくまで図式に過ぎないが、しかし確かに複雑で入り組んだ「ビット」の組み合わせは存在するのである。そう、そして、ビットは人の深層心理にまで複雑に入り込んで作用している。

 

 

 

さてそのような「ビット」の考えを導入すると、とりあえず3つの異なった「勉強のありかた」を提示することができる。この3つは二つの相反したビットの組み合わせの違いに過ぎないから、どれが優れてどれが劣っていると言うことは本質的にはない。

 

そして私自身はこの三つの異なる勉強のありかたを、思い起こせば全て体験してきたのであった。とは言えこの三つにはあくまで本質的な優劣はなく、従って全て体験する必要は全くないと言える。自分の場合はたまたまそうなってしまっただけ、と言うに過ぎない。

才能論と予定説

マックス・ヴェーバーが示すカルヴァン派の「予定説」だが、理解のために自分に引き寄せて考えると、例えばアーティストは自分には「才能がある」と、すなわち「選ばれた人間」だと確信するためには実際に優れたと言える作品を作ってそれを証明しなければならない。

 

さらに加えて、アーティストがいかに優れた作品を制作できたとしても、それだけでは「才能がある」とは言えない。なぜなら実際に一発屋で終わるアーティストはごまんといるわけで、自分に才能があると証明するには努力研鑽して優れた作品を「作り続ける」他はない。

 

つまりアーティストは、どんな時にも自分には才能があるか、才能がないか、という二者択一の自己審査と対面している。

 

それは資本主義における経営者も同様で、優れた経営者は常に実績を上げ続けなくてはならず、失敗したらその時点で「経営者失格」の烙印を押されてしまう。

ただし経営者の場合、その人が優れた経営者かそうでないかは客観的な数字で示されるのに対し、アーティストの作品の評価において「世評」は本質的には当てにならない点が異なる。

アーティストの場合、一度でも成功すればそれによって「世評」が獲得でき、その後は自己模倣の駄作を量産しようと世評は徐々に上がって行き、やがては「巨匠」と崇められるようになる。そしてこれはヴェーバーが述べた「個々の功績を徐々に積み上げる」というカソリックのあり方に通じている。

しかし本質的にアーティストの価値と世評とは「無関係」で、だからアーティストは自分で自分の価値を審査しなければならず、そのためにも自分自身の「眼」を鍛え上げ続ける必要がある。大袈裟なようなが、少なくとも葛飾北斎はそのような人であり、そのあり方は世俗を離れた宗教者に近くなる。

それはヴェーバー自身も同じであって、学問としての厳しい自己審査があるからこそ『プロテスタンティズムの倫理と近代資本主義の精神』のような回りくどい文体でしかも注釈だらけの読みにくい論文になるわけで、「世評」を気にしてたら絶対このようにはなり得ないのである。

予定説は「才能論」と結び付けて考えることができる。つまり予定説においてはその人が「救われる者」であるかどうかは神様がお決めになったことなので人間には知り得ず、同様にその人の才能がどれだけ優れているかも容易に見極める事は出来ない。

なぜなら優れた能力とは、優れた能力を持った者のみが認識しうるものであり、なんの能力も持たない凡庸な人間には理解しようもない。ところが「世評」はそのような本質的な判断を抜きにして安直に特定の人物を「才能がある」として持ち上げる。

それこそが権威主義であり、だからカソリックに対して宗教改革を必要とした人々が現れた。さらに言えばマルクス科学的社会主義唯物論は「科学」を権威とした権威主義であり、それによって人々を扇動し得たのだと言うことができる。

覚悟と思想



高橋由一の自画像、改めて見るとクソのように下手くそで呆れるが、最近よく分かったのは絵が下手な人は「上手くなろう」という「覚悟」が無いこと。北斎にはその「覚悟」があって死の間際までそれを貫き落とした。由一は覚悟が全然なくて「素材」で誤魔化してるに過ぎない。 

私が美大予備校の時代に先生教わったのは「デッサンなんか見たまま描けば良いんだから、誰でも描ける」ということ。才能はあまり関係なく、とにかく「見て」描く。下手な人のデッサンは対象物を「見ていない」ことが丸わかりで、高橋由一の油彩画はその典型の悪い見本だと言える。

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上記の「残業ゼロ」の話も、社長の「覚悟」がそれを可能にしたことが最大のポイントで、何だってまずは「覚悟」の問題なのである。しかし近代とは「テクニックの時代」でもあるので、覚悟のなさをテクニックで誤魔化す手法がまかり通っている。日本の近代では高橋由一がその先鞭なのだ。

 

日本の近代黎明期に油彩画と写真術の両方を学んだ横山松三郎と言う人がいるが、その油彩と写真を融合させた作品も、斬新なようでいて「技術だけ」に終わっている、その意味で価値のないものに過ぎない。そして現代においてこのレベルの作品はごまんと存在する。 

そして実は何を隠そうこの私自身が作家としては「技法の人」であり「技術の人」であるのだが、それだけに「技法だけ」「技術だけ」に終わらないよういろいろ考えてきたのだった。しかしそれもまず「覚悟」の問題であって、覚悟がなければそのためにはどうしたら良いのか?という考えに思い至れない。

 

私が自分がとても読めなさそうな「難しい本」を読むようになったのも、読むためには読む「覚悟」が必要で、覚悟さえあればどんなに難しくとも、だんだんとそれなりに読めるようになってくるし、何より「読書とは何か?」が分かってくる。

 

「難解な本の読み方」とか「読書とは何か?」と言うことを先に理解してから読書に挑んだとしても、そういう外からの知識はほとんど役に立たない。私も以前、高田明典『難解な本を読む技術』 (光文社新書) を読んだが今振り返ると役立たずの駄本に過ぎない。必要なのは覚悟だけで方法は後からついてくる

 

高橋由一の絵に対し、「この自画像、そもそも目が自分と向かい合ってない(まさに見てない)ですもんね。そういう意味で象徴的な絵とすら思えて来ます。」と言う意見をいただいたが、では見ないで描いた絵が抽象画なのか?と言えばそれも違うのでは?確かに抽象画はモチーフを見て描いてはないが、少なくとも画家は自分が描く絵を見て描いている。由一のような画家はモチーフも見てないし、自分の絵も見ておらず、だから絵が「弱い」。

 

結局、人間は「思想」によって「見る」。それは人間以外の動物も同じで、カエルはカエルの思想で、牛は牛の思想によって、固有の世界(環世界)を見る。そして人は何をどう見るかの思想を自ら構築できる。思想を構築しない画家は何を見て良いかがわからず、それが作品に現れる。

 

高橋由一の絵に対して「迫真の写実」という世評がまかり通っているが、そのような世評に惑わされず、自分の目で良し悪しを見抜くことが重要である。だが世評が間違えやすいように、自分の目も間違いやすい。だから間違えないよう、自分の目を鍛錬する必要がある。多くの人は鍛錬を怠って世評に頼ろうとするから、世評はますます当てにならないものになる。

 

私にはどうも、高橋由一は油絵という新技法に「逃げた」という風に思えてしまう。一般に「思想=世界の見方」を鍛えるより、技法だけをマスターする方が単純で楽なのである。それに江戸時代における油彩画は、素人を簡単に騙せるテクニックでもあったわけで、それが「世評」に繋がったと考えるとしっくりくる。

 

ニーチェが言うように認識しない人は悩む。悩みがあっても悩みを解決する覚悟がなければ、何も認識しようがなく解決のしようが無い。最も重要なのは悩みを解決しようとする「覚悟」であり、全ては後からついてくる。しかし多くの人は「覚悟」する事のストレスに耐えられず「悩み」の中に投げ込む。

 

もちろん悩むことにはストレスが伴う。しかしその悩みを解決するには「覚悟」が必要で、これにもまたストレスが伴う。だから多くの人は覚悟に伴うストレスを嫌って、慣れ親しんだ悩みのストレスへと逃げ込む。

 

王と常識

金持ちが金から金を生み出すように、知識から知識を生み出す人がいる。一方で貧乏人が金から金を生み出せないように、知識から知識を生み出せない人がいる。知識から知識が生まれないのは「常識」が邪魔をしているからである。

 

その人の中で「常識」が知識の王様として君臨していると、その他の知識をことごとく撃退してしまう、あるいは、その他の知識を「常識」という王のもとに従えてしまう。そのような人は、いくら新たな知識を仕入れたとしても、その知識から新しい知識が生まれるということがない。

 

「常識」という絶対的な権力を持つ王が、たくさんの知識を家来として従えている。そんな人はいくら知識を取り入れてもそれらをことごとく常識化してしまい、常識以外の新しい知識を生み出すことがない。

ニーチェと資本主義

資本主義の「資本」とは単なるお金ではなく「お金を増やすためのお金」である。そして「お金を増やすお金」であるところの資本は金額が幾らでも良いと言うわけではなく、「一定程度以上の大きな額のお金」を指す。だから資本主義とは単なるお金主義ではなく「大きなお金主義」と表現できる。

 

資本主義の定義はいろいろあるが、基本的には資本家(お金持ち)が、生産手段(工場など)を有し、労働者を雇用し、生産を展開するシステム、である。

 

ある程度以上のお金があれば工場などの設備を買い揃え、労働者を雇って商品を生産し、それを販売して利益を得て、そうやってさらにお金を増やすことができる。と言うのが資本主義のシステムである。

 

最近では(お金を持っている)資本家が金を出して、(金を持っていない)優秀な経営者を雇い、その雇われ社長の判断によって設備を購入し人、を雇って、商品を生産し、金を増やす例もあるが、基本的な構造に変わりはない。

 

日本の資本主義は明治になって始まった。なぜ江戸時代に資本主義がなく、明治時代からそれが始まったのか?実は「資本家が生産手段を有し、労働者を雇用し、生産を展開する」と言うシステムを動かすには相当な能力が必要になる。

 

資本主義の世の中にあって、日常的な「小さなお金」を超えた、資本主義を作動できるほどの「大きなお金」を動かせる能力を持った人間は、ごく少数に限られている。このように本当にごく少数の優れた能力を持った人間を「均等な機会」によって選別しなければ資本主義は成り立たない。

 

これに対し江戸時代の日本は封建制であり、個人の能力ではなく世襲制によって身分が決まり、機会が均等ではない。そのようなシステムでは資本を動かせるほどの優秀な人材を選別し続けることができず、資本主義は成立しない。だから資本主義と民主主義は深く関係している。

 

世の中に身分制度がなく、機会の均等が与えられていたなら、どのような境遇に生まれたとしても、優秀な人間はその能力に応じて出世し、資本を動かしてさらに金を生み出すと言う、誰にでもできないような稀有な仕事を受け持つことができるのである。

 

日本の資本主義を作り上げたのは福沢諭吉で、『学問のすすめ』の冒頭で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と説き、四民平等の世の中では学問を修めて能力を身に付けた人間は社会的にいくらでも出世できると述べた。つまりそのように能力の高い人間を出世させなければ資本主義は回らない。

 

以上のTweetは下記の番組のパクリだが(笑) このように見ると資本主義とはニーチェが理想とする「強者が伸び伸びとその優れた能力が発揮できる健全な世の中」になっているように思える。因みにニーチェ(1844-1900)は福沢諭吉(1835-1901年)は同世代である。

 

 

その意味では、資本主義はキリスト教の影響の範囲外にある。資本主義は純然たる「能力主義」で、そうでなければ複雑高度な資本主義のシステムは作動しない。いや本当はマックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読まなければならないのだが…

 

ウェーバーは後で読むとして、ニーチェと資本主義について。資本主義の世界はニーチェの理想を実現しているのに、ニーチェはなぜ不満を漏らしているのか?ニーチェはあくまでキリスト教の悪口を言っているのであり、資本主義の悪口を言っているわけではない。

 

しかし産業革命と民主主義と近代国家主義とに裏付けされた資本主義は、一方ではかつてない規模の大量の「弱者」を生み出すシステムでもあった。つまり資本主義によって様々な種類の大量の商品が生産されるようになり、そのために大量の人間がこの地球上に生息可能になったのである。

 

そのようにして増えた人間を資本家は雇って商品を生産し、その商品を増えた人間たちに買ってもらうことで、さらに資本を増やすことができる。そしてその資本を投入してさらに生産性を増し、その商品を買うことで人々は自分たちの家族を増やし、それがまた資本家に雇われる。

 

つまり資本主義とは、人間の「能力の偏在」を利用したシステムだと言える。「原始人の末裔」である「強者」の数は、原始時代からの一定数が変化しない。原始時代から文明時代に移り、それ以後に増えるのは新たな遺伝子を持つ「弱者」のみである。

 

そして福沢諭吉が『学問のすすめ』で説いた民主主義の機会均等とは、大量に生まれた「新しい遺伝子を持つ弱者」たちのうちから、ごく少数の「原始人の末裔である強者」を選別するシステムだと言えるのだ。

 

そして、資本主義はごく少数の「強者」と大多数の「弱者」がいるという、「能力の偏在」があってこそ成立するシステムなのである。全ての人間が資本家であったなら、資本主義は成立しない。多くの労働者はもらった賃金を「資本」として使うような能力を持たないその意味での「弱者」である。

 

労働者は労働で得た賃金を一つには「消費」に回すことで、資本主義に貢献する。消費とはまさに財が消えて無くなる事を意味し、そのようにして労働者は「消費者」となり、消費した分の商品を次々と永遠に購入することになり、資本家に貢献する。

 

労働者はまた、労働で得た賃金で家族を養い子供を増やす。資本主義以前の世の中では「品物」が絶対的に不足しているため、人間が子供を増やせる数が一定以下に限られていた。しかし資本主義が生み出す大量の商品によってその限界がなくなり、労働者は子を増やし、その子がまた労働者になるのである。

 

資本主義はまた、「弱者」に対してもその最適な望みを与えるシステムでもある。文明の基本とは多数の弱者を生み出しこれを養うシステムであるが、資本主義はこれに特化している。そしてそのような素地の中に、ニーチェが嫌悪した「キリスト教的価値観」が台頭する余地が生じるのである。

 

初期の資本主義社会では、労働者の酷使と貧困が社会問題化した。イギリスでもアメリカでも年端もいかない子供までもが労働者となることが常態化した。これは資本家が資本主義時代における「王」となり「暴君」となった状態と言える。

 

この現代の暴君に対し、キリスト教的倫理観が意を唱え、これに歯止めを掛けるための諸制度が整備されるようになった。つまり資本主義の世の中は、ニーチェが望んだ「強者」の価値観と、これとは正反対のキリスト教な「弱者」の価値観が拮抗したバランスで成立していると見ることができる。

だが、この資本主義に拮抗する「キリスト教価値観」は実になかなか強力で、なぜならそれも資本主義の恩恵によってより力を得ているからである。従って現代の「キリスト教的価値観」は、資本家以外の「強者」の存在を許さず、それにニーチェオルテガも憤っているのである。

 

恐らくだが「資本主義」の世界にあっては資本家と労働者以外の立場の人間は浮かばれない仕組みになっている。その近代において「純粋芸術」の理念において金にもならない作品を生み出し、貧乏に喘ぐ芸術家が出現することは、まことに不思議である。またニーチェなどの哲学者の居場所はどこにあるのか?

 

それにしても、たった5分の動画を見ただけで資本主義の何たるかがだいぶ理解できたのだが、以前は「景気が一向に良くならない」などと言われても何の事なのか?全くわからなかったが、今なら明瞭に理解できる。まぁ何も知らなくとも生きて行けるのが資本主義ではあるのだが…

ニーチェの言う「強者」の特徴

強者とは、過酷な自然環境を生き延びてきた原始的エリートの末裔である。その遺伝子は厳しい自然環境によって選別される。これに対し弱者とは、本来の自然環境では生きられない、文明成立後に発生した新しく選別された遺伝子を持つ種族である。

 

強者とは野生種である狼のようなものであり、対して弱者とは、文明成立後に狼から選別され独自に発達した犬のような存在である。強者は原始人の特性を強く受け継ぎ、認識力が発達し、環境への適応性が高い。

 

強者は弱者に対し寛容である。なぜなら強者は圧倒的多数の弱者を自らが、置かれた「環境」とみなし、よく観察してよく認識し、全てを知り尽くしているからである。一方、弱者は少数者である強者を迫害するが、そのような迫害に対し強者は実に寛容な態度を示す。

 

なぜなら強者は弱者がなぜそのような態度をとるのかを知り尽くしているのであり、腹も立てないのである。強者は自分が弱者から迫害され、排除されることを、環境として十分認識し、それだから柔軟に対応できるのである。

 

強者にとっては、どんな環境であってもそこは過酷な自然環境と変わらないのである。強者はそのように「死のリスク」のある環境に身を置かなければ「生きている」と言う実感を得ることができない。

 

安全で退屈な人生は強者には耐えられない。動物園で餌をもらって暮らす狼ほど惨めな存在はないのである。

一方で羊は人に飼われながら餌をもらうのが幸せで、逆に荒野に放り出された羊ほど不幸な存在はないのである。

 

弱者は安寧で不動の環境を求める。弱者が求めるのは究極的には天国であり極楽浄土である。

強者はむしろ、環境の変化そのものを求める。環境が変化してこそ、自らの能力が発揮できるからだ。

 

弱者はむしろ、自分の能力はなるべく発揮したくないのである。能力を発揮しなければならなくなった時、それは「緊急事態」であり出来るだけそうなるのを避けたいと願っている。

 

環境が変化したなら、それに応じて自分も変化しなければ環境に適応できない。強者はいかようにも自分を変化させる柔軟性を持っており、それが優れた能力となっている。

 

これに対し弱者は今のままの自分に固執し、決して自分を変えようとしない。それは環境変化に弱く、自分が今いる環境に固執する性質と表裏一体の関係にある。

弱者は何も知ろうとせず、何も認識しようとしない。なぜなら何か新しいことを知り、認識してしまうと、それまでの自分が別の自分へと変化してしまうからだ。だから弱者は何も知ろうとせず、何も認識しようとせず、深く悩む。

これに対し、強者は自分に悩みが生じた際は、その原因を知ろうとし、問題解決の方法を認識し、従って考えはするが悩むことをしない。

 

強者は環境に適応することを目的に生きる。そのために自らが適応すべき新しい環境を自ら作り出す。言ってみれば、自らピンチを招く状況を作り出し、それを切り抜けることに生きがいを見いだしている。

 

もちろん弱者はそのような生き方に耐えることができない。弱者が求めるのは安全であり、安心であり、安寧である。そのために自分はできるだけ「何もしたくない」のである。

 

もちろん弱者もただ生きながらえるだけでは退屈で、「生きがい」や「娯楽」を必要とする。しかし弱者が求める生きがいとは、あくまで舞台俳優ではなく「裏方」であり、弱者が求める娯楽とはこれも舞台俳優ではなく「観客」なのである。

 

つまり弱者は生きがいにおいても娯楽においても、自分の身を投じて何かをすると言うことがない、その意味で「何もしない」のと同じなのである。

 

強者はいつも忙しく、休まる時がない。原始時代の原始生活において、じっくり熟睡をしようものなら、いつ凶暴な肉食獣に襲われるかも分からない。強者の祖先である原始人は、そのような過酷な自然環境を生き抜いてきたのである。

 

強者は広範な分野に対して好奇心旺盛で、常にそれらについて知ろうとして忙しい。また強者は目まぐるしい環境の変化へと自らを追い込み、その適応に忙しいのである。