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認識と模倣

笛は今のように黄銅で覆われ、トランペットと張り合う楽器ではなく、わずかの穴をもつ細身の簡単なものであったが、コロスの歌を伴奏し、これを助け、超満員になることもまだなかった観客席をその息吹きで満たすに十分であった。じじつ、そこへ集まったのは…

小中華と大中華

小中華から大中華へ!当の中国文明は、とっくの昔から実際的に小中華に陥っており、だから孔子も嘆いているのである。小中華とはSMAPの『世界に一つだけの花』であり、世界の中心に自分だけの小さな華が咲いていると言う思想であり、いっぽうで大中華とは唯…

言語と呪術

私が提唱する「非人称芸術」とは、自覚的に呪術の産物であった。私はソシュール言語学に起源を持つ構造主義から呪術の何たるかを学び、その方法論を自らの芸術の創造に応用したのだった。 呪術とは、人間が「言語」を使って世界認識をするその性質を応用する…

文明と中華

多くの人は自信家で、夢を見ている。自信家で夢を見ている人に対し、現実を伝えようとすることは無意味である。寝ながら夢を見えいる人にいくら声をかけても意味がなく、無理やり目覚めさせても怒りを買うだけである。多くの人は何よりも睡眠を妨害されるこ…

現実と願望

フロイト『夢判断』読んでいるが、夢判断のためには、自分の見た夢の全てを報告(記録)し、こんな細部は馬鹿馬鹿しいからなどと思い、自分の判断で省略してはならない、とある。しかし現実とは夢のようなものであるなら、自分が今見ている現実を、自分が見…

動物と本能

江ノ島でトビを観察すると、彼らが実に上手に飛ぶのに感心するが、ほとんど羽ばたくことなく、微妙に羽を動かながら気流に乗って悠々と空中停止しているが、餌の食パンを放り投げると一転急降下し、さっと空中キャッチし、それどころか油断すると、パンの袋…

本能と努力

思い返すと「自分には出来ない」と認めた事が出来るようになっている。例えば私は子供の頃から文章を書くのが苦手で、「書く事ができない」と認めたからこそ努力して徐々に書けるようになって来た。ところが「いつかやろう」と思っていることは「やれば出来…

後悔と孤独

人間の知性が基本的に集合知であり、個人が集合知の端末だとすれば、個人的な精神病とは集合的な病であり、その意味で誰もが孤独ではない。自分の悩みは集合的な悩みであり、自分の躓きは集合的な躓きであり、自分の罪悪は集合的な罪悪であり、自分の孤独は…

神と恐ろしさ

人間以外の生物に罪は無い。例えばトラに人が食い殺されたとして、トラの罪を責める人はいない。また蚊が人を刺して痒みを与えたとしても、蚊の罪を問う人もいない。 哲学が困難なこの時にこそ哲学する意味がある。頭が鈍っていて哲学が困難な、哲学から最も…

永遠の「今」

人間は永遠の「今」を生きるのであり、その意味で死ぬことは決してない。しかしその「今」の内に「人はやがて死んでしまう」という確定事項が、固有の未来予測として含まれている。 人は「今」というこの瞬間に閉じ込められているのであり、「今」というこの…

「今」について

自分は死なないと思っている者は時間を無駄にする。自分はやがて死ぬことは確実であり、しかしいつ死ぬかはわからない、と知っている者は時間を無駄にしない。しかしこの「時間」とは非常に不思議なものであり「時間の無駄」と言うのもどういう事なのかも非…

演繹法と帰納法

もし我々が、自由な、囚われない目で、キリスト教の教義や教会史を眺めることができるならば、我々は一般に流布している考え方とは相反するような多くの見解を表明せずにはおられなくなるであろう。 しかしながら我々は、この世に生まれてきた最初の日から、…

認識と自己省察

昨日は東京都写真美術館の『コレクション展』と『新進作家展』を観に行ったのだが、写真というのは基本的にどれも同じ「写真」であって、その良し悪しの判断は非常に難しい、と改めて思った。そもそも写真に限らずものの良し悪しの判断は非常に難しいにも関…

言語と言語でないもの

概念とは「分けること」であり、その分ける仕方があらゆる間違いの元になる。例えば「言語」と「言語でないもの」を分けることも概念であり、その間違った分け方に人々は囚われる。 「言語」と「言語でないもの」とを分けることは、後から生じたことであって…

物質と精神

作品とは精神の物質化ではなく、精神そのものである。そもそも精神とは非物質的なものではなく、物質であろうと非物質であろうとそれは「見掛け」の問題でしかなく、精神は精神でしかなく、作品は精神そのものなのである。 作品が失われると、精神が失われる…

神と認識

芸術とは何であって、どの作品が真の芸術で、との作品が偽の芸術なのか?それはまず全知全能の神が知っているのであり、人間が芸術を認識するとは、人間の認識を少しでも神の認識に近づけること、つまりは客観に主観を少しでも近づけることである。 全知全能…

完全な認識と類似物

観察と言うのは、自分と対象物との関係を測る事ではなく、対象物と対象物との関係を測る事である。例えば昆虫の観察をする場合、自分はチョウは好きだがガは嫌いだというふうに、自分と対象物との関係を測っても、それを自然観察とは言わない。 食べ物の観察…

明けましておめでとうございます!

明けましておめでとうございます! 今、ふと気づけば2017年の元旦という過去に戻っていて非常に驚いているのですが、今からなら後悔したことを何だってやり直し出来るし、何だって取り戻すことができるし、何でもまだ間に合います!これは実にすごいことです…

認識と喧伝

本来、認識は人間にとって非常に難しいのであるが、現代ではそれがあたかも簡単なことであるかのように、喧伝されている。岡本太郎『今日の芸術』も、芸術とは何か?何が芸術なのか?という認識は実に簡単であると喧伝しているのである。 現代人は「認識は簡…

まどわし神

花輪和一の漫画に『まどわし神』という作品に、人間の認識力を惑わせ、道に迷わせて食糧をかすめ取る、架空の寄生動物が登場するのだが、実際に多くの人が私を含めてこの「まどわし神」に取り憑かれている。 「芸術」を認識するのは本来は非常に難しいのであ…

言語と物

「言語」と「言語でないもの」が区別されないのであれば、「物」とは即ち「言語」であり、「物」は「言語」の特徴を備えていなければならない。 人間を含む生物の身体も「物」であるが、生物の身体は「言語」であると以前に直感したことがあったのだが、「言…

言語と区別

「自然な感覚」に於いて「言葉」と「物」は区別されるが、現象学的還元に於いて「言葉」と「物」は共に精神現象として区別されない。また、自然な感覚に於いて現実と空想は区別されるが、現象学的還元に於いては現実と空想は共に精神現象として区別されない…

認識と先行

言葉は認識の対象であり、つまり自分の存在に先んじて言葉は存在している。自分の存在に先んじて、既にあらゆる事物に名前が付けられている。 言葉は特定の事物と対応している。一つの事物には複数の種類の言葉が対応し、また事物の特定範囲は言葉の種類によ…

現実と思想

オルテガが述べるには、多くの人はそれぞれに思想を持っているが、それらの思想は何ら現実に的中していない。むしろ人々は現実から目を背けるため、自ら作った思想の中に逃げ込んでいる。けっきょく思想とは単純化であり、だからそれぞれに異なっているので…

自分が自分でいられる「これ」

私の問題はアイデンティティの問題だったのだが、私はアイデンティティにこだわり過ぎなのである。つまり自分は「これ」があるから自分でいることができる、という場合の「これ」は本来的には不要なのである。 そもそも、なぜ私がアイデンティティにこだわり…

自明と擦り合わせ

ウィキペディアの「自明」の項目を見ると「自明とは、証明や説明、解説をしなくても、それ自体ではっきりしていると判断されること。ただし、必ず正しいことが保証されるものではない。」とあります。 そして、まさに世間一般で「証明や説明、解説をしなくて…

純粋と自由

小学校では、誰かが先生が帰ってしまったと言うと、子供達はわっと躍り上がって秩序を失ってしまう。子供の一人一人が先生がいると言う威圧感から逃れ、貴族という重荷を投げ捨て自由に振る舞い、自分が自分の主人になったのだと感じる喜びに浸るのである。 …

世論と支配

侵略と異なり、支配は権力の正常な行使であり、それは常に世論に支えられている。とオルテガは述べています。支配は世論が支持しているのであり、世論の支持なくして支配は行えないのです。我々日本国民も、日本国家によって自らが支配される事を支持してお…

猫は猫の専門家

自明性とは相続物です。自分が能動的に獲得したのではなく、受動的に与えられた豊かな相続物が自明性です。 「慢心しきったお坊ちゃんの時代」とオルテガが『大衆の反逆』に書いている通り、現代文明においては我々大衆を「目に見えない召使い」達が取り囲み…

文明と反自然

文明とは「力」であって、文明の力は自然の力と拮抗しています。文明の力が強い所では自然の力は抑制され、文明の力が弱い所で文明は自然の力に圧倒されます。文明の力が強い所とは一つにはアングロサクソンの地であり、これと比較して中国は文明の力が弱く…

文明と妄想

そもそも私のいうところの「非人称芸術」なるものは、果たして本当に存在しうるのか?実に「非人称芸術」の言葉に含まれる「芸術」とは、「自明の芸術」を意味していたのです。つまり自明性という緩い地盤に堅固な建築を建てようと試みる事は、愚かで無意味…

自由と好み

人は一般に自由を欲しますが、しかしあらためて考えてみると、われわれ大衆は、決して「無制限な自由」を欲しているわけではありません。プラトンは「自由人」と「奴隷」の区別を書き記していましたが、現代の大衆はもちろん奴隷ではなく、かといって完全な…

大衆と『野生の少年』

www.youtube.com フランソワ・トリフュオー監督『野生の少年』を観ましたが、大変な名画でした。実に、現代を生きる多くの人は「野生の少年」であって、自らの中に「野生の少年」を発見した者だけが、彼に対する「教育」を試みることができるのです。 実にこ…

Googleとフォトモ

久しぶりGoogle earthを見たのだが、地方都市である青森市までフォトモのように3D化されていて、驚いてしまった。建物の一つ一つを、写真を元にした3Dに変換する技術はまさに「フォトモ」だが、これを独自のアルゴリズムによって自動的に行う点が、私のフォ…

非人称芸術と共産主義

坂口安吾『堕落論』『続堕落論』、短いエッセイなので青空文庫で読んでみたが、岡本太郎の芸術論とも、椹木野衣の「戦後リセット論」とも共通点があり、その両方のベースとなったと思わせるものがある。 『堕落論』とは一種の原理論で、その原理を人間の原始…

価値転倒には二種類ある

一口に「良いもの」と言ってもそれには「自分が良いと思うもの」と「世間一般に良いと言われているもの」と「普遍的に良いもの」の三種類がある。 そして私の価値観は、それが「非人称芸術」なのだが、本来は芸術ではないものの価値を転倒させて、芸術だとし…

岡本太郎と岡本かの子

岡本かの子こそがスゴイのではないか?と言うことは岡本かの子の川端康成宛の手紙の字がスゴくて気付いたのだが、静岡市美で開催された川端康成のコレクション展で、数ある文豪たちの書簡のうち、かの子の書だけが際立って、燦然と輝いていた。このテンショ…

人間と小説

岡本太郎の父母の思い出を語ったエッセイを集めた『一平 かの子』を読んでますが、ふと気付いたのは、私は小説をほとんど読んでこなかったのだが、これが非常によろしくなかった。なぜなら岡本太郎の言うように「人は生まれながらにして“自分”である」筈が無…

作者とプロデューサー

「非人称芸術」という言葉を、自分独自の定義をカッコに入れて、その意味を考えないと、それは全く「片手落ち」になってしまう。そうやってあらためて考えると、作品にサインのある人称芸術と、非人称芸術と、その区別は本質的に曖昧であることに気づく。 作…

想像とイメージ

「経験した」とはその経験によって「自分が変わること」を意味している。たとえ何かを経験したとしても、それによって自分に何の変化ももたらさないのであれば、それを「経験した」とは言わない。そして人が歳をとると、新たな経験をしても自分が変化するこ…

他人と不幸

そういえば私は子供の頃から物凄い不幸を背負っていて、とことん不幸で救いようがない。しかしそれだけに、一見幸福そうにしていて自分でも幸福だと信じている他人の中に、自分とはまた異なる種類の不幸の極みを見てしまう。 人間は誰でもそれぞれのあり方で…

抽象と具象

私の「フォトモ」は有り体に言えば「具象」であり、現実の模倣である。しかし現実を単に模倣することは、職人的ではあるが知的であるとは言えない。そこで私の「非人称芸術」は具象と抽象の垣根を越えようとしたのだが、しかし本当にそうなっていたのだろう…

芸術とキノコ

人はなぜ芸術を錯誤するのか?と言えば、まず「芸術」とはその人が理解する以前に、客観的に現象している。例えば「ネコ」と言うものは、その人が「ネコとはこう言うもの」と勝手に思い込む以前に、客観として現象している。人が認識するとは、客観的にすで…

才能と前提

私の言う「非人称芸術」は、「芸術は天才的才能の産物である」という定義が前提になっていたのだが、これは現在の私の中では否定されている。 確かに、この定義が実証されたような例が自分の身近で生じていたように思えたのだが、後で振り返ると自分が若い頃…

才能と成功

自分がいかに優れていようとも、それは自分のせいではなく、自分がいかに劣っていようとも、それは自分のせいではなく、人は奢る必要もなく、卑下する必要もないのです。 自分がどれだけ成功しようとも、それは自分のせいではなく、自分がどれだけ失敗しよう…

作品と切り取り

作品とは何か?と言えば作品に仕上げようという意識がなければ作品にはなり得ません。昨日はGoogleストリートビューで世界各地を旅してましたが、そこで見るパノラマ画像は「作品」という意識で作られたものではなく、なので明確に「作品」とは異なっていま…

中央と地方

「地方」においては、親も学校の先生も子供に勉強をさせようという気がなく、子供も押し並べてやる気がなく「中央」との格差が開いてしまう。そして例え地頭が良い子供でも、地方に生まれ育ってしまうと周囲に引っ張られ、結局は勉強しなくなってしまう。と…

理論とコピー

私は学生時代に自分の才能の無さをとことん思い知って、オリジナリティを追いかけることを放棄して、模倣に徹することにしたのです。しかしどう言うわけか、私が模倣をするとエラーが生じて別のものが出来上がり、それがいい塩梅に自分のオリジナリティにな…

距離と羨望

遅ればせながら『アナと雪の女王』をDVDで見て特にLet it go!の開放感に感動したのですが(笑)子どもの優れた能力を、世間体を気にした親が抑圧するのは良くあることです。自分の子供のみならず、一般に人は人の優れた能力を理解せず、それを否定し抑圧し…

自己と要求

西田幾多郎『善の研究』「第四編 宗教」の冒頭に「宗教的要求は自己に対する要求である」とありますが、実に奥が深いと言わざるをえません。 いったい我々は、日頃からいかなる要求を、自己自身に対してしているのでしょうか? 我々は他人に対してあれこれ要…