哲学・科学・宗教

私と存在

自分は存在しない。いや少なくとも「自分が存在する」と素朴に認識するようには自分は存在しない。実際に、目に見えるあらゆるものは、他人が作ったものであり、自分が作ったものは何一つ存在しない。自分で自分の顔が直接見ることができないのと同様、自分…

描く力と考える力

美術批評家・キュレーターの黒瀬陽平さんのインタビュー記事に、 「なぜ描かないんだ?」って、ときどき聞かれますが、それは僕に才能がないからですよ(苦笑)。実際に絵を描く力と、理論を考える力とは全く違います。その両方が備わっている人は凄くラッキ…

考えた途中で途切れる

「考える」とは「常識を疑う」事に他ならない。いくら考えても「常識の内側」で考えることは同義反復に過ぎず、本当の意味で考えるとは言えない。 常識とは何か?動物の場合イヌにはイヌの常識があり、ネコにはネコの常識があり、カエルにはカエルの常識があ…

時間と偽装

サブカルチャーとは何か?と思ったら、本来の仏教に対する大乗仏教がサブ仏教だった。本来の文化に対する民衆のための文化がサブカルチャーであるなら、本来の仏教に対する民衆のための大乗仏教はサブ仏教なのである。 カルチャーとサブカルチャーの違いは何…

感情と思考

マキャヴェッリの『君主論』を君主でもない一般人がなぜ読まなければならないのか?と言えば、現代日本は民主主義社会であり、文字通りに言えば人は誰でも庶民であると同時に君主なのであり、だから『君主論』や古代中国の帝王学である諸子百家などを読む必…

量と時間

マキャベリの「君主論」読んでるが、ここで言われる「力量」と「運」について、力量とは一つには翻訳の文字通り「量」であり、それは時間の量である。個人の知力は無限に増大させることは不可能で、それは「寿命」により制限されている。つまり知力の増大に…

ポスト科学と総合性

英語のscience(科学)の語源はラテン語のscientia(知識)であり、scientia(スキエンティア)はscio(スキオー=知る)の派生語である 。と言うことだが、scienceを科学と訳したのはそれがあらゆる事物を「科」に分けて捉える学問であるからで、名訳である…

セミと常識

キルケゴールの「絶望は死に至る病である」という言い方は、常識的に考えるとおかしい。ここに常識と言うものの性質が現れている。常識人の死とは他人の死であり、自分は観客席からそれを眺めている。人が劇場の観客席に座っている限り、絶望して死に至るこ…

認識と模倣

前回投稿したブログ記事は、書き始めは認識の二重化について考えようとしたのだが、結局はそれ以前の「認識とは何か?」の問題を深めることになった。そこで辿り着いたのが「認識とは模倣である」と言うことなのだが、これについては繰り返し考える必要があ…

自己と絶望

キルケゴール『死に至る病』再読してるが、絶望して自己自身であろうと欲しない場合、ではなく、絶望して自己自身であろうと欲する場合、とはどう言うことか?そもそも人は「自己」がどう言うものかをろくに知らず、そこで冒頭で自己とはいかに複雑で理解し…

認識と模倣

最も単純な認識とは、存在の認識である。例えば最も単純な「眼」を持つであるウニは、光の存在を認識して、光のない方へと移動する。人間の場合も、例えばうつ伏せに寝ている背中に本を乗せられても、「何かを背中に乗せられた」というその存在だけが認識で…

認識と模倣

笛は今のように黄銅で覆われ、トランペットと張り合う楽器ではなく、わずかの穴をもつ細身の簡単なものであったが、コロスの歌を伴奏し、これを助け、超満員になることもまだなかった観客席をその息吹きで満たすに十分であった。じじつ、そこへ集まったのは…

小中華と大中華

小中華から大中華へ!当の中国文明は、とっくの昔から実際的に小中華に陥っており、だから孔子も嘆いているのである。小中華とはSMAPの『世界に一つだけの花』であり、世界の中心に自分だけの小さな華が咲いていると言う思想であり、いっぽうで大中華とは唯…

言語と呪術

私が提唱する「非人称芸術」とは、自覚的に呪術の産物であった。私はソシュール言語学に起源を持つ構造主義から呪術の何たるかを学び、その方法論を自らの芸術の創造に応用したのだった。 呪術とは、人間が「言語」を使って世界認識をするその性質を応用する…

文明と中華

多くの人は自信家で、夢を見ている。自信家で夢を見ている人に対し、現実を伝えようとすることは無意味である。寝ながら夢を見えいる人にいくら声をかけても意味がなく、無理やり目覚めさせても怒りを買うだけである。多くの人は何よりも睡眠を妨害されるこ…

現実と願望

フロイト『夢判断』読んでいるが、夢判断のためには、自分の見た夢の全てを報告(記録)し、こんな細部は馬鹿馬鹿しいからなどと思い、自分の判断で省略してはならない、とある。しかし現実とは夢のようなものであるなら、自分が今見ている現実を、自分が見…

動物と本能

江ノ島でトビを観察すると、彼らが実に上手に飛ぶのに感心するが、ほとんど羽ばたくことなく、微妙に羽を動かながら気流に乗って悠々と空中停止しているが、餌の食パンを放り投げると一転急降下し、さっと空中キャッチし、それどころか油断すると、パンの袋…

本能と努力

思い返すと「自分には出来ない」と認めた事が出来るようになっている。例えば私は子供の頃から文章を書くのが苦手で、「書く事ができない」と認めたからこそ努力して徐々に書けるようになって来た。ところが「いつかやろう」と思っていることは「やれば出来…

後悔と孤独

人間の知性が基本的に集合知であり、個人が集合知の端末だとすれば、個人的な精神病とは集合的な病であり、その意味で誰もが孤独ではない。自分の悩みは集合的な悩みであり、自分の躓きは集合的な躓きであり、自分の罪悪は集合的な罪悪であり、自分の孤独は…

神と恐ろしさ

人間以外の生物に罪は無い。例えばトラに人が食い殺されたとして、トラの罪を責める人はいない。また蚊が人を刺して痒みを与えたとしても、蚊の罪を問う人もいない。 哲学が困難なこの時にこそ哲学する意味がある。頭が鈍っていて哲学が困難な、哲学から最も…

永遠の「今」

人間は永遠の「今」を生きるのであり、その意味で死ぬことは決してない。しかしその「今」の内に「人はやがて死んでしまう」という確定事項が、固有の未来予測として含まれている。 人は「今」というこの瞬間に閉じ込められているのであり、「今」というこの…

「今」について

自分は死なないと思っている者は時間を無駄にする。自分はやがて死ぬことは確実であり、しかしいつ死ぬかはわからない、と知っている者は時間を無駄にしない。しかしこの「時間」とは非常に不思議なものであり「時間の無駄」と言うのもどういう事なのかも非…

演繹法と帰納法

もし我々が、自由な、囚われない目で、キリスト教の教義や教会史を眺めることができるならば、我々は一般に流布している考え方とは相反するような多くの見解を表明せずにはおられなくなるであろう。 しかしながら我々は、この世に生まれてきた最初の日から、…

認識と自己省察

昨日は東京都写真美術館の『コレクション展』と『新進作家展』を観に行ったのだが、写真というのは基本的にどれも同じ「写真」であって、その良し悪しの判断は非常に難しい、と改めて思った。そもそも写真に限らずものの良し悪しの判断は非常に難しいにも関…

言語と言語でないもの

概念とは「分けること」であり、その分ける仕方があらゆる間違いの元になる。例えば「言語」と「言語でないもの」を分けることも概念であり、その間違った分け方に人々は囚われる。 「言語」と「言語でないもの」とを分けることは、後から生じたことであって…

物質と精神

作品とは精神の物質化ではなく、精神そのものである。そもそも精神とは非物質的なものではなく、物質であろうと非物質であろうとそれは「見掛け」の問題でしかなく、精神は精神でしかなく、作品は精神そのものなのである。 作品が失われると、精神が失われる…

神と認識

芸術とは何であって、どの作品が真の芸術で、との作品が偽の芸術なのか?それはまず全知全能の神が知っているのであり、人間が芸術を認識するとは、人間の認識を少しでも神の認識に近づけること、つまりは客観に主観を少しでも近づけることである。 全知全能…

完全な認識と類似物

観察と言うのは、自分と対象物との関係を測る事ではなく、対象物と対象物との関係を測る事である。例えば昆虫の観察をする場合、自分はチョウは好きだがガは嫌いだというふうに、自分と対象物との関係を測っても、それを自然観察とは言わない。 食べ物の観察…

明けましておめでとうございます!

明けましておめでとうございます! 今、ふと気づけば2017年の元旦という過去に戻っていて非常に驚いているのですが、今からなら後悔したことを何だってやり直し出来るし、何だって取り戻すことができるし、何でもまだ間に合います!これは実にすごいことです…

認識と喧伝

本来、認識は人間にとって非常に難しいのであるが、現代ではそれがあたかも簡単なことであるかのように、喧伝されている。岡本太郎『今日の芸術』も、芸術とは何か?何が芸術なのか?という認識は実に簡単であると喧伝しているのである。 現代人は「認識は簡…