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認識と成功体験

人は誰でも成功体験に囚われています。例えば「猫」を「猫」として認識する成功体験に囚われて、「猫」を「猫」としてしか認識しなくなり、その間違いを正したり、別の見方をする可能性を排除してしまうのです。 日常的な認識、自然的態度の認識とは、成功体…

食べ物エッセイ アイスクリーム

さて、今月も柳川編集長の同人誌『無文芸』のために食べものエッセイを書かなければならないのだが、特にテーマを決めずにだらだら書く練習をしてみようと思う。 いや本当はセブンイレブンについて書こうと思っていたのだが、そう思ってセブンプレミアムのソ…

身体移動と立体視

さて、私はかなり久しぶりにフォトモの作品集を出すことになりまして、従ってそのためのテキストも書かなければなりません。と言うわけで、ちょっと下書きをしてみます。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ フォトモは「平面」である写真を「立体」に加工した表…

万物と和解

「生長の家」創始者、谷口雅春の主著『生命の真相』の冒頭だけ読む機会がありましたが「万物と和解せよ」と書いてあり、実に私は多くの人と敵対しており和解しなければなりません。私は誰と敵対しているのかといえば、それは世間であり、私は世間から浮いた…

断念と理想

『善の研究』で西田幾多郎は、善とは理想の実現である、と説いていますが、しかし多くの人は様々な理由で理想をあきらめ、理想そのものを忘れ去っているのです。プラトンの想起説によれば人間は様々な事柄を忘却しているのであり、自分は何を理想としていた…

自然性と部分性

人は誰でも邪悪さを秘めています。邪悪さとは自然性であり、人は誰でも邪悪としての自然性を秘めているのです。 自然性とは部分性です。生物の認識は種ごとの本能によって規制され、つまりは部分的だと言えるのです。人間の善性は、生物としての部分性を克服…

プライベートと悪

*一般に、悪事を働くことの楽しみ、悪事に加担することの楽しみ、というものは確かに存在します。一つには、自分が悪事を働くことで誰かが不幸になり、それによって自分が優位に立てるという、快感による楽しみです。 あるいは悪を為すことは共同体への裏切…

幸福と快楽

西田幾多郎によると「善」とは理想の追求であり、幸福の追求ですが、逆に「悪」とは何かを考えると、それは理想の断念、幸福の断念で、ほどほどのところで満足し、その「ほどほど」に執着しこれを死守することにあると言えます。 幸福と快楽は違うものである…

経験と反復

経験は何度も同じ経験を繰り返さないと、経験することができません。例えば「おいしい白飯の味」というのも、白飯を繰り返し食べる経験を経なければ「おいしい白飯」と「おいしく無い白飯」の区別が付かず、従って白飯を一回食べただけで「おいしい白飯の味…

意志と直観

経験の蓄積とは何か?純粋経験の立場から、または現象学的立場から、過去の実在は証明することができず、従って本当に自分があることを繰り返し経験した事実は証明できないのですが、現在意識としての「経験の蓄積」は現象として疑いもなく存在するのです。 …

愛と知

西田幾多郎によると、愛することは知ることです。一般に愛というのは感情で、何かを調べて知識を蓄えることは理性だとされていますが、これらは本来的に合一であるのです。 例えばアニメオタクはアニメを愛するが故にアニメをよく知り、カメラオタクはカメラ…

空間と時間

西田幾多郎によると、そしてフッサールによると、認識の「外部世界」を措定すること自体が間違いなのです。私は目で外部世界を見て認識し、その私は外部世界の中に存在する、という認識自体が自然で素朴な錯誤に過ぎないのです。 「空間」も「時間」もその存…

環境と自分

自分は何をしなければならないのでしょうか?一つは自分を変化させ続けることです。動物における変化とは環境変化であり、その意味で環境が変化しない限り、人間は自分を変える必要はないのです。ところが人間にとって環境は認識であり、認識が変われば環境…

言葉と切断

言葉には切断の機能があります。本来は連続しているもの、一体であるものを、切断する機能を言葉は持っています。例えば「手」と言うのも人体のどこまでが手で、どこからが腕なのかが曖昧にもかかわらず、「手」という言葉によって概念的に切断されるのです…

入門と出家

西田幾多郎『善の研究』読み終えましたが、哲学入門書として最適の一冊でした。現代の多くの「入門書」とは異なり、「門の中」にきちんと入れてくれます。 『善の研究』は日本人による日本人のための最適な哲学の入門書で、これが難しいと言われるのはそもそ…

子供と大人

一般に子供は環境の変化に柔軟に対応し、大人はそれが苦手だとされています。子供の欠点は、子供にとってはどんな環境も新しく、その都度学習し適応しなければならず、それだけコストがかかり効率も落ちます。対して大人は、既知の環境であれば学習の必要も…

法然とコンセプト

自分が提唱していた「非人称芸術」についてまた一つ分かったのですが、これは一つには法然の系譜なのでした。つまり「南無阿弥陀仏」と唱えることと、私のいう「非人称芸術」とは、ある意味では同一であったのです。 法然はただ「南無阿弥陀仏」と唱えること…

物質と言語

「分かる」と「分かったつもり」の違いはなんでしょう? 人は「鮮明な今」と「曖昧な記憶」の中を生きています。すなわち「鮮明な今」の鮮明さは「曖昧な記憶」によって裏付けられているのです。いやもしかして、鮮明なのは「言語」だけなのではないでしょう…

アマチュアとプロフェッショナル

時間的前後にも縛られず、あらゆるわざ及び彼の意識によって作られたあらゆる像とによって妨げられることなく、囚われなく自由に、神の賜物をこの今において新たに受け入れ、しかもそれをこの同じ光の内で、感謝に満ちた賛美を持って主イエス・キリストにお…

岡本太郎と才能論

これは、なんといっても一般に、「絵とはこういうものだ」という固定観念がしぶとく食い入って、純粋、素直な鑑賞をじゃましているからにちがいありません。#岡本太郎 今日の芸術 p22 近所付き合いや処世術などと違って、純粋に直感しなければならない芸術鑑…

子供と学び

「子供の感覚を大切に」よく言われる意味での「子供の感覚」とは何でしょう?私の個人的経験で言えば、私の味覚が母親によって教育されていた事の意味が、最近になりあらためてわかってきたのです。私の母親はまずい料理に対し文句を言う人でしたが、子供の…

俗物と哲学

中島義道『哲学の教科書』、今は講談社学術文庫ですが、最初の単行本が1995年刊行で、哲学に興味を持ち始めたその頃に私も読んだはずです。これをあらためて再読してみました。 Amazon.co.jp: 哲学の教科書 (講談社学術文庫) 電子書籍: 中島義道: 本 物事の…

崇高と現実界

中島義道先生の本も『生きにくい…私は哲学病』が本棚に残っていてその冒頭だけ読み返してみたのですが、改めて気付いたのは中島義道先生は哲学を《現実界》に還元しているという事です。《現実界》とは科学の領域でもあり、そして中島先生は哲学を他の「科」…

自明とブリコラージュ

近代になると、人が住む環境が猛烈な勢いでかつてなかった規模の「人工物」で埋め尽くされるようになり「芸術」が相対化されます。また工業技術の発達に伴い「つくること」の最高峰であった芸術の価値も相対化され、これによって様々な錯誤が新たに生じるの…

前衛と野蛮

改めて納得したのですが戦後日本の「前衛芸術」は「前衛」の名の下に原始に回帰していて、「前衛」と「原始」が取り違えられているのです。この問題は私も無関係ではありません。 例えば、1960年代から1970年代初頭にかけて活動していた前衛パフォーマンスア…

死者と意識

自分の目に映るものが何であるか?は解釈の問題であり意識の問題だと言えます。自分の目に見えるものが何であるか?は自分の意識が決定し、意識の作用によって目に見える世界に「そのもの」が創造されるのです。自分の目に見える世界の秩序は、外光の反射と…

芸術と信仰

「鰯の頭も信心から」とは、つまりは「芸術でないもの」が、信心によって「芸術」になり得るのか?という問題でもあるのです。 芸術とは何か?ひとつには「自分が芸術だと思ったものが芸術だ」ということなのであれば「芸術でないもの」に対し、自分が「これ…

信仰とイデオロギー

観念の体系であるイデオロギーには、特有の創造力が備わっています。イデオロギーに備わる創造力は特有のもので、その意味での限界があります。 「鰯の頭も信心から」がイデオロギーに特有の創造力です。イデオロギーの力によって「鰯の頭」が「神」に変わる…

情報と退行

近代の終わり。それが何なのか知らなくとも、我々は近代の終わりを生きているのであり、自分の意思とは関係なく、近代の終わりとして感じ、考え、そして意思するのです。 原始的なもの、反文化的なものに惹かれるのは、自分に固有の感覚ではなく「近代の終わ…

情報と技術

「情報化時代」と言えばインターネットが普及して以後を指すイメージですが、私が生まれた1965年からすでに情報化時代だったのでした。私が誕生しこれまで生きてきたのが情報化時代で、それだけに「情報化」と言うことが自明化し、対象化できないでいたので…

情報と非当事者

「情報化時代」と言った時に、情報化時代に生きる我々にとって「情報化時代」そのものが自明化して、それが何であるかを対象化できなくなっています。 情報化時代とは「素人の時代」でもあります。専門家が持つ専門知識を「情報化」する事で、素人がそれを持…

学びと盗み

人は「自分固有の感性」によって感じ、「自分固有の考え」によって考えているつもりでいて、その実「既成の感じ方」によって感じさせられ、「既成の考え方」によって考えさせられているのです。それは多くの人が店で買った「既製品の服」を身に付けているよ…

性善説と性悪説

【性悪説】人間の本性は悪であり、たゆみない努力・修養によって善の状態に達することができるとする説。荀子が唱えた。【性善説】人間にはもともと善の端緒がそなわっており、それを発展させれば徳性にまで達することができるとする説。孟子が唱えた。辞書…

自尊心と独創性

人は何を目的にして生きるのか?もちろん人それぞれですが、自分を反省的に捕らえて考えてみるならば、一つには、人はプライドを満たして安心を得るために生きています。その欲望は外敵から身を隠して安心するという動物的衝動に根差しています。 多くの人は…

認識と見積もり

世界を認識するとは、自分のレベルの低さを認識することです。なぜなら自然的態度の人は世界を認識することを拒絶し、自分のレベルを高く見積もっているからです。 多くの人は自分が優れている=強いと信じ切って安心しているのであり、過酷な自然の淘汰圧を…

不可能と可能

自分が知っているものは、ことごとく自分が知っていると思い込んでいるものであり、実際それについて自分は何も知ってはいないのです。例えば自分が座っている「椅子」について、私は何も知らないのです。 あらゆる「椅子」は、本来椅子ではないにもかかわら…

認識と外部世界

自分の目にありありと見えているこの世界が「自分のもの」であるような気になってはいないでしょうか?自分の目に見える世界は自分にとって「周知のもの」で埋め尽くされています。もし目に見える世界に「自分の知らないもの」が立ち現れるなら、それはかな…

犬と飼い主

人はいろいろなものに縛られています。つまり人は解放されなければなりません。自分を縛っているのは「自分」です。ですから自分を解放するには「自分」の解体が必要です。「解体が必要」であることは即ち「縛られていること」を意味します。 自分が悪いのは…

無知と貧乏

人が、自分がいかに無知で、いかに無能であるかを「正確」に認識するならば、そこに〈神〉が立ち現れるのではないでしょうか? 人が、自分が無知で無力であることを「個々の具体的な理由の寄せ集め」ではなく、フッサールの言うようにこれを「本質的に直感」…

哲学と宗教

プラトンの著作を読むと、ソクラテスは哲学者であると同時に、敬虔な宗教者であることが分かるのですが、これを以前の私は「古代ギリシアにおいては哲学と宗教が未分化であった」と理解していたのでした。しかし最近あらためて再読して、哲学と宗教は本質的…

自尊心と擬態

『ソクラテスの弁明』再読してますが、「無知の知」を徹底して実行するのは思った以上に難しい。「一を聞いて十を知る」のではなく、「一を聞いて十を知らない事を知る」のでなければいけません。 例えば書店に行って自分が読むことの出来る本を一冊買うと同…

群体と超人

「方法」の原点は「統治」にあるのではないでしょうか。自然としての人間の「群れ」を超えた大人数を統治するには、自然としての人間に備わっていない「方法」が必要になるのです。 人間は自然としての「群れ」を超えた大人数に統治された時、自然としての人…

イメージと方法

美大時代の私は「他人のマネをしない」「これまでに無い新しい表現」というのを目指したものの、才能が無くて挫折します。しかし今振り返ると「これまでに無い新しい表現」を私は「イメージ」で思い浮かべようとして断念したのでした。イメージによって新し…

還元主義で帰納法

ウィキペディアでマルクスの項目読みかけてますが、まずはめちゃくちゃエリートなのに驚きます(笑) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9 マルクスの唯物史観も改めて読むと独自の考え…

敗戦とフランス革命

現象学的に考えると「自然現象」と言えるものが確かに現象しているのです。一方で、「自然現象ではない現象」が現象しています。このふたつの区別は実に曖昧なものを含んでいます。 自然現象以外の現象とは、一般に人間の仕業による現象を指します。例えば絵…

認識とくじ引き

●現象学の基本は認識批判ですが、逆を言えば人は自然的態度において自分の認識に対し無批判で絶対の自信を持っているのです。 自分の認識に対し無批判であることは、ずいぶんと荒っぽい、粗野な態度であり、だから自然的態度でもあるのです。それは人間の動…

現象と現実感

例えば白土三平『忍者武芸帳』で主人公の重太郎は敵に左腕を切り落とされますが、次に登場した時は片手だけで刀を振るい何事もなかったような強さを発揮していたのでした。 つまり健常者が障害を負うとその事の「現実感」が増大しますが、真の意味での剣の達…

寛容と平和

「世界平和を願う」とは、他人に対して腹を立てないよう、暴力を振るわないようお願いすることですが、そもそも自分自身が日常の些細なことで腹を立て、相手を恨み、暴力を振るわないまでも怒鳴ったりするのです。ですから自分を棚に上げ平和を願ったりせず…

占いと認識

認識とは基本的に「占い」と「的中」です。人は誰もが常に占いを立て、的中させたり、外したりしています。あるいは多くの人が自分の占いに自信を持って当たっていると信じ、その実ことごとく外しています。私の占いも外しまくりです。目の前にあるものの良…

認識と外部

私は認知科学などの知識から、人間の認識世界の「外部」の存在を直感していたのですが、その直感は真の意味での直感ではありませんでした。認識世界の外部は文字どおり直感不可能であって、それは理屈の上で想定されるのみで、私はその理屈に納得していただ…