マキャヴェッリ『政略論』抜き書き

●全ての人間は邪なものであり、自由勝手に振舞う事のできる条件が整うと、すぐさま本来の邪悪な性格を存分に発揮してやろうと隙を伺うようになる。 ●彼らの邪悪さがしばらくの間影を潜めているとすれば、それは何かまだわかっていない理由によるのであって、…

戦争と思考

マキャヴェッリは、君主たる者は平和な時であっても常に戦争について考えねばならない、と説いているが、民主主義社会においては庶民がすなわち君主でもあるので、我々も平和な時代にあって戦争について常に考えねばならないのだが、実際にはそうなっていな…

感情と思考

マキャヴェッリの『君主論』を君主でもない一般人がなぜ読まなければならないのか?と言えば、現代日本は民主主義社会であり、文字通りに言えば人は誰でも庶民であると同時に君主なのであり、だから『君主論』や古代中国の帝王学である諸子百家などを読む必…

原理創出と宗教禁忌

交渉というものは、一つには相手の願望をよく理解し、それを実現させてやるように、ことを運ばなくてはならない。例えば、相手が仕事の達成よりも、自分のプライドの維持を優先しているのであれば、それをまず満たしてやることが重要となる。 つまり、仕事の…

マキャヴェッリ 君主論 抜き書き3

●大衆はつねに、外見いかんによって、また出来事の結果だけで評価してしまうものである。しかもこの世の中には大衆しかいないのであり、この大多数の者が腰を落ちつけている場所に、少数の者が割りこむ余地はないのである。 ●人は、必要に迫られて善人となっ…

マキャベッリ『君主論』抜き書き1

これにつけても、覚えておきたいのは、民衆というものは、頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである。というのは、人はささいな侮辱に対しては復讐しようとするが、大きな侮辱に対しては復讐しえないからである。したがっ…

量と時間

マキャベリの「君主論」読んでるが、ここで言われる「力量」と「運」について、力量とは一つには翻訳の文字通り「量」であり、それは時間の量である。個人の知力は無限に増大させることは不可能で、それは「寿命」により制限されている。つまり知力の増大に…

ポスト科学と総合性

英語のscience(科学)の語源はラテン語のscientia(知識)であり、scientia(スキエンティア)はscio(スキオー=知る)の派生語である 。と言うことだが、scienceを科学と訳したのはそれがあらゆる事物を「科」に分けて捉える学問であるからで、名訳である…

共同体と裏切り

○嫉妬や羨望の感情はなぜ生じるのか?聖徳太子の十七条憲法に「人皆党有り、また達れる者は少なし」とあるが、人は皆グループを作りたがるが、その中で特に優れた者はいないのである。人が作るグループとは何か?と言えば、人間は多細胞動物であると同時に、…

セミと常識

キルケゴールの「絶望は死に至る病である」という言い方は、常識的に考えるとおかしい。ここに常識と言うものの性質が現れている。常識人の死とは他人の死であり、自分は観客席からそれを眺めている。人が劇場の観客席に座っている限り、絶望して死に至るこ…

城壁と自由

芸術に自由はない。 一般の人びとがあこがれを以て「芸術に自由がある」といった場合の「自由」とは、荒野に城壁で囲った文明の外部へと脱出するような自由なのである。しかしそもそも、人間は荒野から脱出するために、荒野の一部を城壁で囲ったのである。そ…

他者と強要

自己は自分によって措定されるか、他者に措定されているかの何れかだとキルケゴールは述べているが、例えば自分が自分の名前を名乗ったとしても、その名前は他人に付けられた名前なのである。 例えそれが自分で付けたペンネームであっても、その人は常にあら…

自己と絶望

キルケゴール『死に至る病』再読してるが、絶望して自己自身であろうと欲しない場合、ではなく、絶望して自己自身であろうと欲する場合、とはどう言うことか?そもそも人は「自己」がどう言うものかをろくに知らず、そこで冒頭で自己とはいかに複雑で理解し…

認識と模倣

前回投稿したブログ記事は、書き始めは認識の二重化について考えようとしたのだが、結局はそれ以前の「認識とは何か?」の問題を深めることになった。そこで辿り着いたのが「認識とは模倣である」と言うことなのだが、これについては繰り返し考える必要があ…

認識と模倣

最も単純な認識とは、存在の認識である。例えば最も単純な「眼」を持つであるウニは、光の存在を認識して、光のない方へと移動する。人間の場合も、例えばうつ伏せに寝ている背中に本を乗せられても、「何かを背中に乗せられた」というその存在だけが認識で…

認識と模倣

笛は今のように黄銅で覆われ、トランペットと張り合う楽器ではなく、わずかの穴をもつ細身の簡単なものであったが、コロスの歌を伴奏し、これを助け、超満員になることもまだなかった観客席をその息吹きで満たすに十分であった。じじつ、そこへ集まったのは…

小中華と大中華

小中華から大中華へ!当の中国文明は、とっくの昔から実際的に小中華に陥っており、だから孔子も嘆いているのである。小中華とはSMAPの『世界に一つだけの花』であり、世界の中心に自分だけの小さな華が咲いていると言う思想であり、いっぽうで大中華とは唯…

文明と中華

多くの人は自信家で、夢を見ている。自信家で夢を見ている人に対し、現実を伝えようとすることは無意味である。寝ながら夢を見えいる人にいくら声をかけても意味がなく、無理やり目覚めさせても怒りを買うだけである。多くの人は何よりも睡眠を妨害されるこ…

言語と呪術

私が提唱する「非人称芸術」とは、自覚的に呪術の産物であった。私はソシュール言語学に起源を持つ構造主義から呪術の何たるかを学び、その方法論を自らの芸術の創造に応用したのだった。 呪術とは、人間が「言語」を使って世界認識をするその性質を応用する…

現実と願望

フロイト『夢判断』読んでいるが、夢判断のためには、自分の見た夢の全てを報告(記録)し、こんな細部は馬鹿馬鹿しいからなどと思い、自分の判断で省略してはならない、とある。しかし現実とは夢のようなものであるなら、自分が今見ている現実を、自分が見…

動物と本能

江ノ島でトビを観察すると、彼らが実に上手に飛ぶのに感心するが、ほとんど羽ばたくことなく、微妙に羽を動かながら気流に乗って悠々と空中停止しているが、餌の食パンを放り投げると一転急降下し、さっと空中キャッチし、それどころか油断すると、パンの袋…

本能と努力

思い返すと「自分には出来ない」と認めた事が出来るようになっている。例えば私は子供の頃から文章を書くのが苦手で、「書く事ができない」と認めたからこそ努力して徐々に書けるようになって来た。ところが「いつかやろう」と思っていることは「やれば出来…

後悔と孤独

人間の知性が基本的に集合知であり、個人が集合知の端末だとすれば、個人的な精神病とは集合的な病であり、その意味で誰もが孤独ではない。自分の悩みは集合的な悩みであり、自分の躓きは集合的な躓きであり、自分の罪悪は集合的な罪悪であり、自分の孤独は…

神と恐ろしさ

人間以外の生物に罪は無い。例えばトラに人が食い殺されたとして、トラの罪を責める人はいない。また蚊が人を刺して痒みを与えたとしても、蚊の罪を問う人もいない。 哲学が困難なこの時にこそ哲学する意味がある。頭が鈍っていて哲学が困難な、哲学から最も…

第183回 芸術分析塾ラカン 2月9日(木) のお知らせ

彦坂尚嘉塾長の下記ブログ記事からの転載です。 18:00から私も写真の授業をします。 http://41jigen.blog12.fc2.com/blog-entry-1874.html ■課外授業 13:00〜●すみだ北斎美術館 鑑賞 昨年11月にオープンした「墨田北斎美術館」を観に行きます。建物の設計は…

人間と罪

自分がどれだけの偉業を成そうとも、自分が偉いわけではないのと同様、自分がどれだけの罪を犯そうとも、自分が悪いわけではない。 自分がどれだけの偉業を成そうとも、それが自分のおかげではないのと同様、自分がどれだけの罪を犯そうとも、それは自分のせ…

個人知と集合知

「レアリスム宣言」 ギュスターヴ・クールベ1855年 「私は古今の巨匠達を模倣しようともなぞろうとも思わない。「芸術のための芸術」を目指すつもりもない。私はただ、伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった。私が考…

写真家と美術家

自分の肩書きについてだが、これまで私は「写真家・美術家」を名乗ってきたのだが、これからは「写真家」にしようと思って、先日『CAPA』誌でインタビュー取材していただいた際も「写真家」の肩書きにしてもらったのである。 それは写真の歴史を学べばわかる…

現実と現象

人が永遠の「今」を生きるということは、未だ何もなし得ない「今」を生きることであり、何かを成し得ることの「決断」を迫られている。 絶えず変化する相対的な目的しか持たない日常生活にとっては、相対的な明証と真理で十分である。#フッサール デカルト的…

経験と先験的

素朴な客観主義から先験的主観主義へ! フッサールの言う先験的主観主義とは何か?先験的とは辞書的には「経験に先駆けて」と言う意味だが、経験とは何か? 例えば足裏に画鋲が刺さって「痛い!」と感じる事の経験を考えてみる。実は足裏に画鋲が刺さった瞬…

永遠の「今」

人間は永遠の「今」を生きるのであり、その意味で死ぬことは決してない。しかしその「今」の内に「人はやがて死んでしまう」という確定事項が、固有の未来予測として含まれている。 人は「今」というこの瞬間に閉じ込められているのであり、「今」というこの…

「今」について

自分は死なないと思っている者は時間を無駄にする。自分はやがて死ぬことは確実であり、しかしいつ死ぬかはわからない、と知っている者は時間を無駄にしない。しかしこの「時間」とは非常に不思議なものであり「時間の無駄」と言うのもどういう事なのかも非…

演繹法と帰納法

もし我々が、自由な、囚われない目で、キリスト教の教義や教会史を眺めることができるならば、我々は一般に流布している考え方とは相反するような多くの見解を表明せずにはおられなくなるであろう。 しかしながら我々は、この世に生まれてきた最初の日から、…

認識と自己省察

昨日は東京都写真美術館の『コレクション展』と『新進作家展』を観に行ったのだが、写真というのは基本的にどれも同じ「写真」であって、その良し悪しの判断は非常に難しい、と改めて思った。そもそも写真に限らずものの良し悪しの判断は非常に難しいにも関…

言語と言語でないもの

概念とは「分けること」であり、その分ける仕方があらゆる間違いの元になる。例えば「言語」と「言語でないもの」を分けることも概念であり、その間違った分け方に人々は囚われる。 「言語」と「言語でないもの」とを分けることは、後から生じたことであって…

物質と精神

作品とは精神の物質化ではなく、精神そのものである。そもそも精神とは非物質的なものではなく、物質であろうと非物質であろうとそれは「見掛け」の問題でしかなく、精神は精神でしかなく、作品は精神そのものなのである。 作品が失われると、精神が失われる…

神と認識

芸術とは何であって、どの作品が真の芸術で、との作品が偽の芸術なのか?それはまず全知全能の神が知っているのであり、人間が芸術を認識するとは、人間の認識を少しでも神の認識に近づけること、つまりは客観に主観を少しでも近づけることである。 全知全能…

完全な認識と類似物

観察と言うのは、自分と対象物との関係を測る事ではなく、対象物と対象物との関係を測る事である。例えば昆虫の観察をする場合、自分はチョウは好きだがガは嫌いだというふうに、自分と対象物との関係を測っても、それを自然観察とは言わない。 食べ物の観察…

明けましておめでとうございます!

明けましておめでとうございます! 今、ふと気づけば2017年の元旦という過去に戻っていて非常に驚いているのですが、今からなら後悔したことを何だってやり直し出来るし、何だって取り戻すことができるし、何でもまだ間に合います!これは実にすごいことです…

認識と喧伝

本来、認識は人間にとって非常に難しいのであるが、現代ではそれがあたかも簡単なことであるかのように、喧伝されている。岡本太郎『今日の芸術』も、芸術とは何か?何が芸術なのか?という認識は実に簡単であると喧伝しているのである。 現代人は「認識は簡…

まどわし神

花輪和一の漫画に『まどわし神』という作品に、人間の認識力を惑わせ、道に迷わせて食糧をかすめ取る、架空の寄生動物が登場するのだが、実際に多くの人が私を含めてこの「まどわし神」に取り憑かれている。 「芸術」を認識するのは本来は非常に難しいのであ…

言語と物

「言語」と「言語でないもの」が区別されないのであれば、「物」とは即ち「言語」であり、「物」は「言語」の特徴を備えていなければならない。 人間を含む生物の身体も「物」であるが、生物の身体は「言語」であると以前に直感したことがあったのだが、「言…

言語と区別

「自然な感覚」に於いて「言葉」と「物」は区別されるが、現象学的還元に於いて「言葉」と「物」は共に精神現象として区別されない。また、自然な感覚に於いて現実と空想は区別されるが、現象学的還元に於いては現実と空想は共に精神現象として区別されない…

認識と先行

言葉は認識の対象であり、つまり自分の存在に先んじて言葉は存在している。自分の存在に先んじて、既にあらゆる事物に名前が付けられている。 言葉は特定の事物と対応している。一つの事物には複数の種類の言葉が対応し、また事物の特定範囲は言葉の種類によ…

現実と思想

オルテガが述べるには、多くの人はそれぞれに思想を持っているが、それらの思想は何ら現実に的中していない。むしろ人々は現実から目を背けるため、自ら作った思想の中に逃げ込んでいる。けっきょく思想とは単純化であり、だからそれぞれに異なっているので…

自分が自分でいられる「これ」

私の問題はアイデンティティの問題だったのだが、私はアイデンティティにこだわり過ぎなのである。つまり自分は「これ」があるから自分でいることができる、という場合の「これ」は本来的には不要なのである。 そもそも、なぜ私がアイデンティティにこだわり…

大阪宝くじドリーム館『フォトモ作品展』のお知らせ

大阪での『フォトモ作品展』が始まってますが、広告代理店の方に会場写真を送っていただきました。大阪宝くじドリーム館(大阪市浪速区湊町1-4-1 OCATビル1階)にて、12月10日(土)までです。 http://ocat.co.jp/shop/%E5%AE%9D%E3%81%8F%E3%81%98%E3%83%89%E…

第181回芸術分析塾ラカン 12月08日(木)のおしらせ

第181回芸術分析塾ラカン 12月08日(木)のおしらせです。彦坂尚嘉塾長のブログ記事もご覧下さい。 彦坂尚嘉の《第41次元》アートブログ 第181回芸術分析塾ラカン ●クラーナハ展(国立西洋美術館)鑑賞13:00〜17:00 www.tbs.co.jp 上野の国立西洋美術館の…

自明と擦り合わせ

ウィキペディアの「自明」の項目を見ると「自明とは、証明や説明、解説をしなくても、それ自体ではっきりしていると判断されること。ただし、必ず正しいことが保証されるものではない。」とあります。 そして、まさに世間一般で「証明や説明、解説をしなくて…

第181回芸術分析塾ラカン 11月24日(木)のお知らせ

*彦坂尚嘉先生のブロク記事の転載です。私も講師として参加します。 http://41jigen.blog12.fc2.com/blog-entry-1868.html 予告が間際になって、申し訳ありません。24日は、改装なった東京都写真美術館と、MISA SHIN GALLERYでの篠田太郎の個展を鑑賞しま…