アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

2010年3月tweet

知り得ないことが存在するのは、それについてのルールが存在しないからである。

他人とケンカになるのは、ゲームの中に「この人とはケンカになるかも知れない」というルールが設定されているからである。ゲームの中に「この人とは絶対にケンカしない」というルールを設定すれば、ケンカになることは絶対にない。

非人称芸術を「フォトモ」に置き換えると護美になる。つまりそれは他の護美と同じく、美しい故に護られる対象として認識される。

美術館は護美集積所であって、美しいものは護られなければならない。

ルールを決めなければゲームを始めることは出来ない。 ルールを決めなければ、既存のゲームのルールに巻き込まれてしまう。

私は科学が使えないので呪術を使います。 現代の呪術は科学の断片で出来ています。

アーティストになりたい人は、いろいろなアートの真似をすればいい。真似が出来ない人は独自の道を歩み、アーティストにはなれない。

超芸術トマソンは非人称芸術の代替物に過ぎない。

蝶番を複数箇所に設けること。そうすれば反転の反転は元通りにはならない。

もっと素直に、芸術っぽい作品はやっぱり芸術なんだと、そう考えて良いのかも知れない。

信仰を変えること。そうすれば美術家にも写真家にもなれるだろう。

おそらく、自分の「好み」が非人称芸術のコンセプトを妨げている。

自分自身の感想が一番クダラナイ。

フォトモは非人称芸術の身代わりに過ぎない。

私は「美術」も「写真」も疑っているが、「非人称芸術」だけは疑っておらず、それが最大の欠点だ。

「写真」を疑ったら写真家になることは出来ない。

「美術」を疑ったら美術家になることは出来ない。

私はの視点は「写真家的視点」から絶えず逸らされている。

写真家になりたければ、写真家的に世界の捉え方を変えればいい。

知りたければ真似をしてみればいい。
言語を解体し、自分も解体する。