アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

存在と証拠

「現実が存在する証拠」が不足し、現実を完全に取り逃がすと、人はそこで死ぬ。

目が見えなくなると、人はその分だけ「現実が存在する証拠」を失うが、目の代わりに耳や鼻や手触りなどを使って、別の証拠を集めることもできる。

「寒い」と感じることは、「気温が下がったことの証拠」であると同時に、「自らの生命が脅かされている証拠」でもある。

自分がこの作品を「好きだ」と思うことが、この作品が優れている証拠となり得るのか?

自分がこの店のラーメンを「美味い」と判断することが、この店のラーメンが本当に美味いことの証拠になり得るのか?

自分がこの温泉の湯を「熱い」と感じることが、この温泉の湯が本当に熱いことの証拠になり得るのか?

さまざまな自分の記憶が、「世界が存在する証拠」となる。

人はあらゆる自分の記憶を証拠として、「世界が存在する」と信じる。

毎日会社に行っているという自分の記憶が、会社が存在する証拠となる。

この道の先に駅があるという記憶が、駅が存在する証拠となる。

吉野家で牛丼を食べた記憶が、吉野家の牛丼が存在する証拠となる。

人は何事も証拠だけで判断し、そのための証拠集めをしている。

経験的直感に逆らって諦観することが本質把握。

現象学の領域。

現実と思えるものは、様々な意味によって組み立てられている。

それらの意味を解体すること。

目の前にあるものが、本当に存在すると、自然に信じる気持ちに依拠するのが自然主義

自然主義者は疑うことを知らない素朴な人。

疑う心は邪悪な心、素朴な心はピュア心。

自然主義的に自己観察や反省をしても、現象学的には意味が無い。

「目の前にあるものが、本当に存在するわけでは無い」と知識として知っていることと、そのような見方を徹底することは異なる。

個体は本質では無いが、本質を持っている。

単独者は永久に限りが無い。