アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

無教養主義のすすめ

教養主義と無教養主義
教養主義者は教養を得ることで自由を得ようとし、無教養主義者は無教養であることが自由であると信じている。

 

現代日本は無教養主義芸術の時代である。
教養主義による無教養主義芸術の時代でもある。

 

マルセル・デュシャンは「“画家のように馬鹿”であってはならない」と言い、岡本太郎は「芸術は、爆発だ!」と言い、どちらの言葉が信頼に値するか?はそれを発した「人物」が判断材料になる。

 

本来、人が自由を得るための教養が、なぜそれによって不自由になるとされる無教養主義に転化されるのか?
その理由の一つは、まず教養の間違った使い方(それによって不自由になる)が示され、それが元に無教養主義が生じるのである。

 

教養主義は、教養が人に自由をもたらすことを前提に、教養が無くとも自由をもたらす「近道」として提示され、その根拠を示すため(逆説的に)教養主義を否定する。

 

教養主義により得られる自由と、無教養主義により得られる自由とでは、同じ自由でも種類が異なる。
教養主義により得られる自由は、それと引き換えに相応の犠牲を必要とする。
対して無教養主義は、そのような犠牲の一切が免除される自由をもたらす。

 

教養主義は一切の努力から逃れる自由をもたらす。

 

あらゆる思想哲学の入門書、解説書は、無教養主義の産物として機能する。

 

人間は根源的に不自由であり、だから自由を得るためには相応の努力と犠牲が必要なのだが、努力や犠牲をショートカットしながら得られる自由を無教養主義はもたらす。

 

例えば、自分は今フッサールの『厳密な学としての哲学』をどうにか読み終えようと努力しているが、別にそれが楽しいからと言うのでもなく、たとえ苦しくともそれをせざるを得ない状況に自分を追いやっているだけで、そのような苦痛から逃れる自由を無教養主義はもたらし、実際に自分もそれを享受してきた。

 

フッサール『厳密な学としての哲学』を読んでいて、何が苦しいのかと言えば、一読しただけでは意味が全く分からず、繰り返し少しずつ読んでもなかなか意味が読み取れず、そのような自分の絶望的な頭の悪さに対面しなければならない事なのだが、このような苦しみから逃れる自由を無教養主義はもたらす。

 

難解な哲学を優しく解説した入門書は無教養主義の産物であり、読めば読むほど教養ではなく無教養が身に付き、かく言うぼく自身もこれまで数々の入門書を読んでは凡ゆる無教養を身に付けて来た。

 

確かに無教養は特に生活の上で非常に役立ち、例え教養主義に転向しようともそれを捨てる必要は無い。

 

無教養な人は教養が無いのではなく「無教養」を身に付けている。

 

教養は常識の外部へと脱出する自由を人に与えるが、無教養は常識の内部に留まる自由を人に与える。

 

常識の外部に逃れる自由にはリスクが伴う。
籠の鳥が外へと逃れる自由に、リスクが伴うように。
故に、常識の内部に留まりながら保障を得る、という自由が成立する。

 

「芸術は、爆発だ!」に依拠する芸術家は、実のところメルトスルーして自分自身を見失っている。

 

原発がメルトスルーすれば人間もメルトスルーして、実に多くのが自分の核がどこに落ち込んでしまったのか分からなくなってしまっている。

 

学ぶとは自分が基準にならないことを学ぶことであり、いわば天動説から地動説への転換を学ぶこと。
自分という基準は不動のようでいて、実はそれごと動いていて、何の基準にもならないことを、具体的に知ること。


教養主義は天動説(自分の直接的な感覚)に立てこもる。