アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

一つの神と複数の視点

信仰を変えることは難しい、と言うより新たな信仰を自らに取り入れることは実に難しいのです。自らの内に複数の異なる信仰を同居させ、新たな信仰を迎え入れることです。つまり人の次元を超えた「一つの神」は、人の目からは必然的に「複数の異なる信仰」として立ち現れるのです。

人の次元を超えた「一つの神」は、それ故に人の目からは「複数の異なる信仰」として立ち現れます。ですから「一つの神」の「一つの側面」だけを「一つの神」とみなし、その他の側面であるところの「複数の異なる信仰」を否定し敵対するならば、その人は「一つの神」を裏切っているのです。

つまるところ私はどうも「写真」や「美術」に対する信仰が持てないでいるのです。それは長年にわたり「写真」も「美術」も否定する立場にあり、それが自分の表現の根拠であったからです。しかし実にその肯定と否定とは「一つの神」の「複数の異なる側面」なのであり、自らの内に同居させるべきなのです

キリスト教の聖書至上主義は、宗教を聖書という一側面から捉え、その他の異なる側面を否定しているという意味において、単純であり間違いだとは言えないでしょうか?この事は、芸術の問題にもそのまま当てはまるのではないかと私は思います。

宗教を「宗教」という一側面からだけで捉えることは、その意味で不十分です。ソクラテスの時代は哲学も宗教も科学も芸術も未分化であったようですが、それは基本的に現代でも変わらないのです。つまり物事を多面的に捉えるという意味で、私は「宗教」という言葉を使うのです。

主観的なものは、単に特殊な感性的性質に過ぎない。

多くの人の認識とは、すなわち常識とは、数学的法則によって生じているに過ぎないが、常識によって、常識を支える数学の存在そのものを認識することは出来ない。

常識とは方程式であり、世間の人は答えが分かり切っている方程式を繰り返し計算しています。

水槽の金魚は数学的に姿勢制御し、彼らの内に垂直、水平、前、後、の組み合わせによる「直角」の概念が存在するのが観察できるのです。

数学とは何でしょう?数学が苦手な人は、数学とは何か?を知らずに苦手意識を持っているのではないでしょうか?少なくとも日本の学校教育においては、数学とは何か?という最も重要な問題の存在自体を隠蔽し、自明の数学を基盤に教育を施すのです。