アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

おたくとアホロートル

●数学が世界そのものであると同時に、数学とは異なる世界が同時に重なり合って存在しているのです。いや、そのように人間には認識されます。非数学的世界は、近似的に変換することで数学的な認識が可能になります。

世界の中に数学が存在するのではなく、数学は世界そのものなのです。世界の中に、部分的に数学が存在しているように見えるのは、その部分に世界の本質としての数学の一角が、姿を現しているに過ぎないのです。

●何をどれだけ知ろうとも、死ぬ時は一切を手放すことになります。知ることは死ぬことの準備なのです。

何をどれだけ知ろうとも、あるいは何も知らなくとも、死に向かう苦しみや不安に違いはないのです。だからこそ、より多くを知る焦燥感に駆られるのです。

自分は何を知ろうとしているのかを自分は知らない、と言うことをまず知るべきです。

自分は何を知らないのかを知っていないのです。だから自分が何を知りたいのかも知らないのです。

岡本一平の文章のうち『非凡人と凡人の遺書』と言うものが青空文庫で読めます。また夏目漱石岡本一平画集の序文を書いていて、これも青空文庫で読めます。岡本太郎を知る上で大変貴重な資料で、その意味でも大変に面白いです。入力されたボランティアにも感謝です。

最近、岡本かの子の、文化的成熟度合いに驚いているのですが、対して息子の岡本太郎幼形成熟文化の代表格であり、それ故に魅力があるのです。

●おたくの高齢化は文化の衰退を一面では現していないでしょうか?

おたく文化とは、文化を子供文化に代用する文化です。本来なら子供文化は、大人文化へ移行するステップとして存在したはずですが、つまりおたく文化とは子供文化の幼形成熟なのです。幼形成熟のまま、おたくが高齢化しつつあるのが現代の日本です。

月並みな言い方ではありますが、現代は幼形成熟社会、幼形成熟文化の時代です。高齢化したお子様文化が幅を利かせる時代です。

幼形成熟は生物学的には何ら異常ではなく、正常な環境適応です。そんな環境で、私はウーパールーパーからメキシコサラマンダーへと変態しようと、悪あがきしてるのかもしれません。

ドクサとエピステーメーはともにギリシャ語。ドクサとは単にそう思い込まれた根拠のない主観的意見、漠然とした相対的な日常的認識。エピステーメーは理性による真の知識、合理的認識。

現代人が、と言うことではなく、人間とはそもそも幼形成熟なのであり、たとえ精神が未成熟であっても、生殖機能だけは成熟するのです。

多くの人は自らの固有のドクサを宝物のように大切に守ります。ドクサとはキラキラ光るそれぞれの宝物です。大人にとってはガラクタでも、子供にとっては大切な宝物です。その意味で聖なるドクサなのです。

幼形成熟とは、安定した特殊環境への適応形態です。ですから人間は、近くから遠くへと旅立つことで、つまり「自分」という故郷を捨ててより遠くに旅立つことによって成熟することができるのです。