アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

キッチュとは何か

「芸術分析塾ラカン」の授業で読んだ『モダンの五つの顔』の「キッチュ」の章のメモです。

__


歴史を知ることは自分が今どの場所にいて、どこへ進むべきかを知ることです。歴史を知ろうとしない人は、何の見通しも効かない「今」という深い森の住人です。

「今」という自分の周囲以外に見通しの効かない深い森の住人は、閉じ込められているわけではなく、自ら望んで頑強にとどまり続けるのです。

自明性とはなんでしょうか?人間の寿命は数十年と短いため、あらゆる事物が自明で、不変で、普遍のように見えてしまうのです。この素朴な感覚を超えるには歴史を学ぶことです。

見通しの効かない「深い森」から脱出するには、文字通り見通しが効かないが故に自分の力だけでは不可能なのてす。実際に人類は何百万年ものあいだ森の中だけで生活していたのです。森を脱するには知恵の力が必要です。現代の森は至る所に「知恵の実」を発見することができます。

日本は島国で、人の精神のあり方も島国です。つまりそのように偏向しているのであり、偏向とは部分的欠損を生じているのであり、これを埋め合わせることで正常なバランス(中庸)を取り戻し、地理的な不利を克服出来るのです。

現代日本はキッチュで覆い尽くされ、それ故にキッチュが何であるかが見えなくなっています。

全ての文化は攻撃的な見せびらかしの連鎖以外ではない。とソースタイン・ヴェブレンは指摘しました。

つまりすべての人が、見せびらかしによって攻撃し合っています。

見せびらかしの攻撃力!全ての作品には見せびらかしの攻撃力を備え、全ての観客は見せびらかしの攻撃に対する防御力を備えています。

防御力の弱い観客は、攻撃力の弱い作品に魅了されますが、攻撃力の強い作品に対してその精神が持ちません。防御力の強い観客だけが攻撃力の強い作品を享受できます。

衒学趣味とは、つまり知識の見せびらかしとは、攻撃の一形態です。見せびらかしとは他人への攻撃なのです。ですから自分は単に知っていることを語っただけのつもりでも、他人から攻撃として受け止められる事があるのです。人は常にあらゆる他者と攻撃し攻撃される関係にあります。

それ(キッチュ)は資本主義的な機械化への「反応」なのであり、その反応が、機械化の本質を知らぬうちに暴いている。テオドル・アドルノの言葉です。

モダンの反対物のキッチュとは模倣、模造、贋作、であり、資本主義的な機械化への「反応」なのです。

芸術は、その作者にとっても鑑賞者にとっても「鏡」です。量産されたイメージとしてのキッチュに心を奪われる人は、つまり量産品とは自然のしての生物のしての本質で、イメージとは森の中の生物の擬態模様であり、そうした安心感を得ているのでしょうか?

それが美しいのは、それが醜悪“だから”である。スーザン・ソンダクによる「キャンプ」趣味の命題です。

自分が「何となくこう思う」と言うことに至るには、原因が必ずあります。原因とは、前時代に同じことを言っていた人がいる事にあります。

自分が思いついたことは、すでに全時代の人が思いついているのです。真のオリジナリティは、歴史を参照することによってしか生じることはありません。

キッチュは偽の歴史を、歴史の代用品を形成します。例えば、宇宙世紀に始まるガンダムの歴史です。

あらゆる物語は偽の歴史(ヒズ ストーリー)で、歴史の代用品です。だからこそキッチュではない「真正の文学」は物語ではないのです。

超芸術トマソンは、キャンプ趣味の延長にあり、私もその流れを汲んでいたのです。

前衛とは冒険であり危険が伴いますが、キッチュにはそれがなく、見分けるポイントです。

現代はキッチュの時代ですが、それ故にキッチュを取り締まる法律は存在せず、あらゆる分野に合法的詐欺が横行しています。

「美的不適合の原理」はキッチュの原理でした。私が超芸術トマソンから引き継いだ原理です。

あらゆるデザインはキッチュなのでしょうか?それともデザインとされているもののうちに、大量のキッチュが含まれているのでしょうか?現代の我々の世界がキッチュに覆われているとするなら、キッチュではない領域はどこでしょう?

そもそもデザインとはなんでしょうか?改めて考えるとよくわかりません。

自然界にデザインは存在するのでしょうか?自然の生物の形態は、機能と方法によって決定されます。それは人が作る道具と同様です。デザインはどこに存在するのでしょうか?

キッチュはモダンの反対物であるにもかかわらず、モダンに属しており、19世紀初めより以前は遡ることができず「歴史的深さ」を欠いている。

ロマン主義は最初の大衆的な文学芸術運動で、人生の主要目的としてではなく、労働の合間のリクリエーションとして享受される。

キッチュの本質は今北産業です。いまスレに来たばかりのオレに内容を3行で説明してくれと言う2ちゃんねるのアレです。

本来、芸術とはこれを享受するためには膨大な時間をかけて教養を高める必要があるのです。この時間を極限まで短縮することの追求がキッチュで、それは本来は勤務以外の時間がごく僅かな労働者のためのものです。

労働は学問を阻害し、キッチュを生じさせます。キッチュは近代資本主義の労働者はみな忙しいのです。

哲学とは暇の産物です。古代ギリシャでは労働を奴隷に任せた市民が、有り余る時間を哲学的思索に充てたのでした。現代の労働は奴隷から機械に置き換わっていますが、市民には哲学する時間が十分にはありません。

忙しい人が求めるのは即効性です。即効性のあるものはキッチュです。

哲学を少しでも読まなければ、キッチュは対象化できませんでした。キッチュキッチュでないものとの比較によって対象化されるのです。

ブロッホによれば、ロマン主義以前の価値システムは、到達すべき目標がシステムの外部に存在するという意味で、開かれていた。

キッチュを基準にして、難解な芸術や学問を批判することは、キッチュの常套手段ではありますが、転倒しています。しかし実際に、何に難解なフリをした衒学的な芸術や学問も存在することも事実です。そして、それらも同様にキッチュなのです。

キッチュでないフリをしたものもまたキッチュなのです。これらはキッチュという言葉が死語になったのをいい事に、世の中にのさばっているのです。彼らが求めているのは金で、金を得るための地位や名誉です。

キッチュとは臆病さの自己保身の産物であり、その意味で近代資本主義と生物的根源とも融合とも言えるのです。

構造主義の対義語である表層主義とはキッチュの事でした。表層深度のディテールを極める表層主義は学問のフリをしたキッチュです。