アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

騙し絵と騙される人

ラカンを読んでいて改めて思うのは、自分はいかに常識に囚われているかと言うことです。囚われている、と言うことは、どうしようもなく逃れようがない、と言うことです。逃れようもなく囚われの身として絶望の他はありません。人生の残りを考えると、私は失敗作でしかありませんでした。当然の事です。

何を見ないのでしょうか。まさに、ものが人々を見ているのを見ないためです(ジャック・ラカン)

つくづく思うのは、自分がいかに素朴であるか、と言うことです。素朴な人は芸術家には向かないし、まして写真家には向かないのです。

欲望の開拓を糧に生きる人々。

凝視する欲望と鎮静。魂を高めることと諦念。

眼差しの制圧。眼差しは様々な次元と段階において制圧されています。

騙し絵は芸術ではありません。それは、騙されるのはどんな人々なのかを考えればわかることです。騙される人は自分が騙される以外のことを望んではいないのです。

自分が騙されることからの決別が、芸術を生じさせるのでしょうか?

兵は詭道なり。万人の万人に対する戦いの中で、芸術だけが騙しではないものなのでしょうか?

騙し絵に惹きつけられる人が、芸術に惹きつけられることはありません。騙される人は騙そうとしないものを認識しないのです。

騙す側はディスプレイし、騙される側はそれに応えます。芸術はその関係の外部の存在です。

騙し絵とは単純な記号です。

素朴な人は自己中心的です。自分がどこにいて、どこから来たのかを忘れているのです。

世界交通網と抽象美術

統一された身体がばらばらになり、抽象化されます。

たくさんの事物を比較すると、物事は抽象化されます。

装飾と、抽象は、似てるところもありますが根本的に異なります。

フロイトディスクールそのものの中では、意識と言う事実は何らかの影、それどころか染物をする時の染め残しと言う意味での残り分と言うような位置づけを与えられています。(ジャック・ラカン)