アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ブレンターノ『道徳的認識の源泉について』

ブレンターノ『道徳的認識の源泉について』を読みました。フッサールの師匠です。中公世界の名著にフッサールと一緒に収録されてました。
http://www.chuko.co.jp/zenshu/1980/09/400672.html

私にも、哲学が、ようやく分かって来た気がしますが、哲学は実のところそれほど難解なものではなく、原理的には誰にでも可能です。むしろ哲学は「難解なもの」として庶民から遠ざけられ、取り上げられてしまっているのです。

哲学は誰にでも必要で、その意味で誰にでも可能で、その意味でそれほど難解ではないのです。世間的イメージで「難解」とされるのは、哲学が人々から遠ざけられ取り上げられているからです。般若心経を「読めないお経」とし、本来は理解可能で極めて有用なその内容を人々から取り上げているのと同じです

哲学が誰にとっても必要である理由の一つは「善」の問題です。一口に善と言っても何を「善いこと」とするかは実に難しい問題で、人は宗教や思想信条や性格や好き嫌いが様々で、個人も意識や無意識に分裂し、気分によっても変わるのです。なので「善」を為すには相当の知力が必要で、哲学が必要なのです

哲学が難解なのは、何を「善」とするかが実に難しく、それだけ「善」を為すのが困難だからです。知力の限りを尽くして「善」を行うのが哲学の一つの意味です。

哲学なくして「善」はなし得ないのでしょうか?素朴で善良な人、子供の純粋な善良さもまた、存在を否定し得ないのではないでしょうか?素朴な善良さは「善」の出発点かも知れませんが、それだけに適用範囲に限界があります。例えば、素朴な善だけで政治は行えません。

哲学が難解なのは、何を「善」とするかが実に難しく、それだけ「善」を為すのが困難だからです。知力の限りを尽くして「善」を行うのが哲学の一つの意味です。

「素朴な善意」にも尊さはありますが、その適応範囲に限界があり、これを超えると「悪意」に転じます。知力を尽くして善を為す哲学の意味はそこにあります。

科学の台頭によって哲学が衰退しますが、だからこそフッサールは科学者を「素朴」だと批判するのです。科学者は科学的思考に囚われるあまり認識論的には素朴で、そこが欠点なのです。

フッサール現象学もようやく分かって来た気がしてましたが、認識論としては決定的なもので、これを知らない者は現代人ではないとさえ言えます。私ももっと早く知っておくべきだったと後悔してます。認識論ですから、もちろんアートにも写真にも使えます。