アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ドラえもんの現象学

哲学とは素朴実在論の世界から抜け出すための「術」です。その術を身に付けず、素朴実在論の内側に留まりながら、哲学的知識をひたすら記憶すること、それはまた別の「術」です。

自分が見ている世界は、自分の外部の世界ではなく、自分の認識世界の内部でしかありません。つまり目に見える全てのものは「自分のもの」なのです。目に映る他人のものは、実は「自分のもの」です。何故ならそもそも他人とは自分の認識世界内部の存在であり「自分のもの」だからです。

現象学的に見れば「のび太の物は俺の物、俺の物は俺の物」です。何故なら自分が認識するのび太自体が、自分の認識世界内部の存在であり「俺の物」だからです。しかしこの場合「俺の物」は「俺の思い通りになる物」とは限らず「俺が全てを知り尽くしてる物」とも限りません。

「俺の認識世界内部」に存在する「俺の物」は、ことごとく俺の思い通りにならず、俺の知らない物だらけです。例え自分の思い通りにならなくとも、また自分には全くなんであるか分からない物であっても、全ては自分に与えられた「自分のもの」には違いないのです。人はそのように大変な贈与を受けてます

人は誰でも大変な贈与を受けてます。しかし素朴な人は、そのような贈与物をことごとく「自分の物では無い」と勘違いするのです。そして贈与物のごく一部を「自分の物」と信じてこれに強烈に固執するのです。

現象学を「術」としてマスターした人は、自分が受けた膨大な贈与物を認識し、その「思い通りにならなさ」や「わけの分からなさ」に注意を向け、徹底的に調べ上げようとします。贈与物の価値を認めるとはまさにそのことです。

自分の思い通りにならない物、自分にとって意味の分からない物、そうした物にこそ価値があります。何故ならそれこそが、自分が受けた「贈り物」の本質だからです。では反対に、自分の思い通りになる物、自分がよく知る物とは何でしょう?

現象学的に見れば「のび太の物は俺の物」ではなく「のび太の物は俺の現象」で、「俺の物は俺の物」ではなく「俺の物は俺の現象」です。つまり「他人の所有物は自分の思い通りにならず、自分の所有物は自分の好きにできる」という性質そのものが自分の認識世界に「現象」として立ち現れるのです。