アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

視覚と距離

我々はお互いに言葉を話す以前に「見る-見られる」の関係にあります。言葉が通じない動物に対しても、我々はその関係にあります。

単に「見る」ということの中に、実に様々な要素が含まれていますが、我々はその機能の大半を意識することはできず、全ては「素朴実体論」に回収されます。

人間の目は中心がはっきり見え周辺に行くに従いぼやけます。視界中心部のはっきりさは、人に多くのものを見失わせます。視界のはっきりした部分は、はっきりしないものが見えない領域でもあるのです。

「見る」は現象として生じますが「見られる」もまた現象として生じます。

目の無い存在がなぜ私を見ていると言えるのか?目のある存在が私を見るとは、どういうことなのか?目のある人の目の中には、私の小さな模型が写り込んでいます。小さな模型を作ることが、見ることなのでしょうか?模型がなければ、ものは見えないのでしょうか?

例えば目の前の電柱は、私を見ているのでしょうか?およそ15m先に見える電柱、実は私の目の中に、網膜像として張り付いているのです。遠くに見えると思えるものは、距離0mで密着しています。自分が見ているものに、我々は侵入されています。

どんなに遠くに見えるものも、実は自分の眼球内の網膜に、密着しています。遠くに見える電柱も、ビルも、山並みも、雲も、太陽や夜の星も、全てが0mで自分に密着しているのです。

目に見えるものに距離の違いは存在しません。全ては網膜に密着してるからです。異なるのは目に見えるものの移動速度です。自分が移動すると、それに伴い視界の中で高速移動するもの、低速移動するもの、微動しかしないもの、停止しているもの、がありその速度の違いを「距離」に置き換えているのです。

自分が移動すると視界が「変形」するのです。そして視界の部分によって変形する速度がそれぞれに異なるのです。この変形速度の違いが、距離の違いに換算されます。しかし実際に目に見えるものは全てが網膜に密着し、距離0mなのです。

目に見えるものの全ては網膜に密着し、視界において距離は存在しません。ですから写真が平面なのは「現実」の忠実な再現なのです。人は視覚の中で、速度と距離を取り違えます。この取り違えを写真に反映させたのが、すなわちフォトモなのです。

視覚に距離は存在しないということは、目に見える世界は立体ではなく平面なのです。目に見える世界は、ある速度を伴って変形する平面です。目に見える世界と写真との違いは、変形の仕方の法則にあり、どちらも平面であることに違いはないのです。