アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

クローンと他人

そもそも、人は幸福を追求すべき存在なのでしょうか?フッサールの師匠のブレンターノによると、人間は「善」を追求すべき存在であり、幸福はその付属物でしかありません。「善」という概念はヒトが群体生物であることを前提に、各ユニットとしての振る舞いを示しています。

ウィキペディアで「群体」を改めて引くと「無性生殖によって増殖した多数の個体がくっついたままで、一つの個体のような状態になっているもののこと」とあります。つまり生物学的にヒトを群体だと言うのは間違いです。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%BE%A4%E4%BD%93&oldid=48539289

人間はクローンでは増えないので、その意味では群体とは言えません。しかし精神的存在としてはどうでしょう?ヒトはパンのみに生きるに非ず、精神的存在でもあるのです。精神的な存在としてのヒトは、実はクローンではないでしょうか⁈

「自分」と「他人」の関係が「クローン」の問題として理解できるとしたらどうでしょう?これは肉体ではなく精神としての問題です。

生物学的な群体はクローンですが、この定義にこだわるのは無意味です。なぜなら科学の根底には素朴実在論があるからです。私の問題は自分と他人との関係で、これを「生活世界」に騙されない仕方で捉えたいのです。

人と人とは「言語」で繋がっています。人は生まれながらには言語を知らず、他人に言語を教わらなければこれを習得できません。そして人は言語を習得しなければ人にはならないのです。人の本体を「言語」だとして見れば、個別の発話体が複数連なり一個の生物のように振る舞うのです。

人がなぜ言葉を話せるようになったのか?は実に不思議です。生まれたばかりの人は言葉を知らず、誰か他人に教わらなければこれを習得できないからです。

文明以前の狩猟採取段階の人類は、数十人規模の「群」で生活し、言語の種類も群ごとに異なっており、膨大な種類の言語が存在しました。言語が人の群れごとに個別に発生したとすれば、それはどのように発生し得るのでしょうか?もう一つの可能性は、言語の発生源は一つだと言うことです。

言語を知らずに産まれてくる人間の言語が、数十人規模の「群」ごとに自然発生するとは考えにくいのです。人類の言語の起源は「一つ」で、ここから様々に分岐したと考える方が無理がないのではないでしょうか?一方で、遺伝子的に見て人類の起源は一つだと科学ではされています。

科学的な定義にこだわり、これに惑わされることはありません。有性生殖と無性生殖に本質的な違いはありません。それは人類のタブーに関係しているに過ぎません。私の問題は自分と他人との関係を、生活世界から自由に、自明性に惑わされず、異なる仕方の妥当性によって捉えたいのです。

有性生殖と無性生殖の違いは、ある特殊な事情によって「違う」とされているだけであり、その事情を考慮しなければ、その違いは無いに等しくなります。ですから有性生殖と無性生殖に本質的な違いはないのです。つまり人間は遺伝子的にも言語的にもクローンなのです。

人は誰もがクローンで、量産品です。自分と他人に本質的な違いは無く、他人同士もまた同じです。この「同じ」と言うことをきちんと見据えなければ、「違う」と言うことを正確に把握することはできません。「違う」と言う先入観に惑わされては、その本当の違いを見誤ってしまうのです。

人間はクローンであると同時に「群体生物」で、個体生物ではありません。「群体」と言うことをきちんと見据えた上で、はじめて「個体」についても語ることができます。「個体」と言う先入観に惑わされると、人間にとっての個体や個人や自分が何であるかを、見誤ってしまいます。

もちろん、人類の言語の起源が一つだという説も確認しようがなく、これにこだわることも無意味です。

自分だけが理解し使用可能な「私的言語」の不可能を示したのはウィトゲンシュタインですが、言語とは公共的な存在で、従って人間もまた公共的な存在です。これが群体と言うことの意味ですが、一方で人は主観的には個別に振舞おうとします。人間の個別性の一つは怠惰です。

人間は公共的な存在ですが、主観的には個別性が存在します。ソクラテスやブッダやブレンターノが説くあり得べき個別性が「善」であるなら、これは結局は公共性の一環です。だとすると、あらゆる個別性とは本質的に公共性への裏切りでは無いのか?これは公共性への裏切り=悪を必ずしも意味してません。