アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

哲学と分岐

どれだけ高度で難解な理論も、問われることのない前提を使用している限り、砂上の楼閣に過ぎません。

人間のあらゆる知的活動、および精神的活動は、哲学の分岐として存在します。ソクラテス孔子が、政治が哲学から切り離されていることを嘆くのは、その意味においてです。つまり政治は哲学の分岐で、科学も芸術も哲学の分岐なのです。

自分は専門家としてと哲学者にはもちろんなれないでしょうが、哲学者の分岐としての芸術家にはなれるはずです。芸術と言う枝の元を辿って哲学に遡ることは誰にでも可能で、これはどの分野にも当てはまり、その意味で誰もが哲学者になれるのです。

14年前の2000年ごろだったか、友人の美術家に「美術家である前に思想家でなければならない」と言ったらハナで笑われた事がありました。一つの意味は私の未熟な思想が思想たりえてなかった事ですが、もう一つの意味は美術家が思想を語ろうとすること自体、ハナで笑うべき事だったのです。

つまり芸術には、哲学の分岐としての芸術と、哲学をはじめとした諸分野から独立したその意味での純粋芸術とがあるのです。純粋芸術の立場からは、芸術を哲学に基礎付けるなぞハナで笑うべき事でしかありません。画家は絵についてだけ考えるべきで「画家のように馬鹿」と指摘したデュシャンは間違いです

親なくとも子は育つのでしょうか?芸術が哲学という親をなくし、純粋芸術となって育つことは可能でしょうか?親がなくとも子が育つのは例えば昆虫です。昆虫は生まれながら本能を備え学習することなく育つので親は不要です。つまり純粋芸術は、純粋芸術としての本能を備えているからこそ純粋なのです。

何も学ぶ必要がないのが純粋芸術です。学ぶことなく自分に備わった本能で行うのが純粋芸術です。モンシロチョウが生まれながらモンシロチョウとして運命付られているように、純粋芸術家は生まれながら純粋芸術家なのです。哲学などという親ははじめから不要です。

岡本太郎は「学べ」と言ったでしょうか?岡本太郎が説いたのは学びの否定です。そして本能に目覚めよと説いたのでした。それが純粋芸術であり昆虫芸術です。昆虫には学びがなく本能を頼りに純粋に自分らしく生きます。岡本太郎の作品も昆虫の如く首尾一貫して「岡本太郎らしい」同一の作風です。