アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

フォースの力と判断停止

全的な現象学的態度と、それに所属している判断中止とは、本質的に完全な人格的変化を結果として生じうるような任務を持ち、それはさしあたって宗教的改心とも比べられるようなものであるが、しかしそれを超えて、人間性として人類に課せられる最も大きな実存的変化を、その中に潜めているような#フッサール

フッサールの説く「判断停止」はいかにして可能なのでしょうか。
あらゆる判断は慣性の法則のように惰性で作動していて、容易に停止させる事は出来ないのです。
自分の判断と、判断材料を反省すると、それは実にゴミの集積の様なもので、判断とは押し寄せるゴミの川なのです。これを停止させるのは容易ではない。

自分が何かを判断する時、どの様なゴミが押し寄せ流入しているかを観察することです。
自分が「もっともだ」と思いながら判断するあらゆる材料は、改めて検討すると根拠薄弱なゴミ、ゴミ、ゴミなのです。
その様な様々なゴミが怒涛の様に押し寄せ、その惰性の流れ、自動的作用は停止不可能なのです。

大量のゴミが流れる川を停止させるのが不可能なのと同様、惰性的に自動作用するあらゆる判断を停止させることは不可能です。
ここで必要なのは「フォースの力」です。スターウォーズの様なファンタジーは、実際的な超能力をファンタジーに置き換えて、表現しているのです。

スターウォーズで描かれるフォースの力は、フォークロアの伝統に則っています。
本来動かせないはずのものを動かす力が魔法であり、念動力であり、フォースの力です。
しかし、人々が本当に動かせないものは「自分の精神」です。
動かない自分の精神を外部の「物」に反映し超能力を描くのがファンタジーなのです。

古代から、真の賢者は動かないはずの自分の精神を動かすことができる、その様な超能力を身に付けています。
しかしフォークロアは、これを民衆にわかりやすく置き換えて表現し伝承するのです。
即ち精神は「外部の物」に置き換えられ、賢者の力は「物体を触れずに動かす超能力」に置き換えられます。

自分の精神は大きな岩の様に動かすことは出来ません。
あるいは川の流れの様に、自分の精神の流れを止めることは出来ません。
それを可能にするのはフォースの力です。
実に、フォースの力で動かせるのは外部の物ではなく自分の精神です。
そして現象学的に自分に見える物とは、自分の精神の産物なのです。

スターウォーズでは、真の賢者が実のところ「究極の悪」として逆転して描かれています。
真の賢者は世間の理解を得られず迫害され、少数者集団を形成します。
ソクラテスもキリストもごく少数の弟子たちと共に行動し、世間から悪とされ死刑になりました。
スターウォーズで描かれた「シスの暗黒卿」はまさにそれで、対してヨーダ師率いる「ジェダイの騎士」は凡人の集団でした。

凡人には倫理観が欠如し、それ故に間違った選択をする、この点をスターウォーズはよく描いていました。
有色人種のクローン兵を容認し、これを共和国軍兵士として採用したのはジェダイの騎士なのです。
一方シスの暗黒卿は若きジェダイであるアナキン・スカイウォーカーに、ジェダイとは異なる「規範」と「原理」を示します。

スターウォーズ・サーガは新約聖書をパリサイ人の視点で描いた物語として読むこともできます。正義のジェダイからフォースの暗黒面シスに転じたアナキンは、キリストの信徒迫害の急先鋒から、キリストの信徒へと回心したサウロと重なります。

私はスターウォーズ・シリーズのうち、最後の「エピソードlll シスの復讐」に特に入れ込んでいたのですが、今から思えば上記のような構造を、ろくな知識もないままに察知していたのでした。

そもそも私は、子供の頃からヒーロー番組の悪役に感情移入する傾向にあったのですが、子供向け番組もフォークロアのセオリーに則り、時として真の賢者が「究極の悪」として描かれるのです。