アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

経験と説明

あらゆる理論が無意味なのでは無く、具体性に属さない空論が無意味なのです。
科学理論は、具体性に属し、実際への的中を示すからこそ意味があるのです。
哲学もまた同じです。

抽象的と思える理論も、実は具体性に属しています。
どれほど抽象的な理論であっても、それは人間という具体的存在が発しているのです。
つまり「人間が発している」という以上の具体性を持たない理論は、無意味です。

日常的生活を送るのに学問は不要で、高尚な学問に日常的な煩わしさは無用で、お互いそのように思っていることが間違いだと、フッサールは説いてます。

単に主観的な相対性を客観学的、論理的によって克服したように外見上見えるが、この客観的、論理的理論は、人間の理論的実践としては単に主観的、相対的に過ぎないものに属しているし、同時に主観的、相対的なものの中にその前提を、即ちその明証性の根源を持たねばならない、と言う逆説#フッサール

自分にとって明証的だとしか思えないことの多くが実際には間違いだと言う事実を、どう考えれば良いのでしょうか?

ここで純粋思考、即ち直感に関しては何の顧慮を払わないでも既に明証的な真理を持つだけでなく、世界の真理さえ持つとされる純粋思考という、抜き難い仮像が生ずるのである。この仮像こそは、客観的学の意味と可能性とを、その「到達範囲」を不確かなものとすることになる。#フッサール

人がそこに既に真正な真理を持っていると思い込んでいる最も高い価値のある論理的なものに比べるなら、つまらない価値の低いものと見られている、直感という空虚で漠然とした題目が生活世界の問題となり、この主題の大きさと難しさが真剣に追求されて巨大なものに成長する時#フッサール

「認識論」と知識論との大きな変化が現れるのである。その変化においては、科学は究極的には問題と作業としての独立性を失い、単なる部分の問題になってしまう。#フッサール

学以前に存在する述語的表現や真理とかこの相対性の領域の内部で規制している「論理学」とかさらにまた生活世界を純粋に記述するのに適している論理的な物とかをアプリオリに規制している原理の体系を問うことの可能性と言った物は今まで決して考えられたことがない。#フッサール

自然で素朴な、とにかく既に遂行されつつある妥当性を差し控える#フッサール

直感できないものを説明で置き換えて認識することは間違っています。
高度な理論的整合性を、自分が直感出来ない事に置き換えるのは無意味です。
直感は具体的経験の蓄積により生じます。
自分が経験していないものについて、他人から聞かされる物語のように説明するのは無意味です。

多くの人は、自分が経験していないことについて、自分が直感していないことについて、他人にその物語を聞かされるように説明します。
しかし実際に経験し直感したことについて、人はうまく説明することは出来ないのです。
つまり上手い説明は、実際に的中しないからこそ説明として上手く出来ているのです

自分が経験も直感もしていないことについて、理屈で説明して安心する習慣を絶たなければなりません。
理論的整合性には、現実から目を背けさせるという、麻薬と同様の作用があるのです。

一言でいえば我々は全体的な客観的、理論的関心に対する判断停止、客観的学の研究者としてだけでなく、単なる知識を求める者としての我々に特有な目的追求や、行為の全てに関しての判断中止を遂行するのである。#フッサール