アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

志とサブカルチャー

難解なフッサールを読むのが余りにしんどいので、合間に赤瀬川原平『カメラが欲しい』再読してましたが、私の問題は「芸術」などと言いながら、実は自分という存在の半分以上がサブカルチャーで出来ているという経歴で、つまりサブカルチャーの只中にいるその間、サブカルチャーを相対化できないでいた事でした。

赤瀬川原平さんの著作を再読すると、改めて思うのはこの人は芸術家では無く、サブカルチャーの人だと言うことです。赤瀬川さんはこの本の冒頭で「カメラには興味はあるけど、写真には興味が無い」と断言してるのです。その昔の私はこの意見に同調したのですが、アーティストとしては褒められた態度ではありません。

「カメラは好きだが写真に興味はない」という主張には、文化や文明に対するリスペクトが無く、美術史に対するリスペクトが無く、それは少なくとも芸術家が取るべき態度ではないのです。しかし世間で赤瀬川原平は芸術家ということになっており、亡くなる直前に回顧展も開かれ、ここに転倒が生じてるのです。

結局のところ私は田舎者で、素朴過ぎたのであり、そういう問題でしかなかったのでした。素朴な田舎者は都会に出ることで洗練されますが、私が入学した当時の東京造形大学は高尾の山奥にあって、そこは都会ではなかったのです。もう一つ言えば、東京は世界的に見れば、芸術的に田舎に過ぎないのです。

『カメラが欲しい』を改めて読むと、赤瀬川原平さんはカメラマニアでもコレクターでもなく、カメラにちょっと詳しい程度の「ただの人」の立場でエッセイを書いているのがわかります。それが「ただの人」である読者の共感を得たのでした。「ただの人」はカメラにちょっと興味があり、写真にはまるで興味なしなのです。

フッサールが素朴な人を非難するのであれば、自分は自らの素朴さを認めこれを反省する他はありません。素朴な人は何の価値もないものに価値があると勘違いして、そのように素朴に騙されたまま気付くことが無いのです。「自分」の構成要素の大半は、そのようなもので出来ているのです。

赤瀬川原平さんは、素朴でしたたかな人であったのです。そんな赤瀬川さんを芸術家と認識した人々も、自分を含めてまた素朴であったのです。素朴な人が芸術や写真芸術を理解するのは難しく、簡単に理解できるのはせいぜいカメラの魅力なのです。

素朴な人は、これは反省を込めて自分のことですが、芸術や写真芸術のような、人間の高度に複雑な精神の産物を理解することができないのです。繊細かつ複雑な精神の働きを理解せることができないが故に、「素朴な人」とされるのです。対してカメラという存在は素朴で単純明快な精神を虜にする力があるのです

合目的的に作られたカメラという存在の魅力は、素朴な精神の持ち主にも理解可能です。ところが芸術や芸術写真には合目的性が無く、その複雑な精神性は素朴な精神では理解し難いのです。そんな大衆の心情にマッチしたエッセイとして赤瀬川原平『カメラが欲しい』があり、私もこれを愛読したのです。

私が素朴なところは「お前は能無しだ」と親や教師や世間から言われ、それを間に受け自ら「自分は能無しだ」と信じた事です。いやそもそも日本人は互いに「お前は能無しだ」と言い合うことで互いの能力を低レベルに止めるゲームに興じており、自分もその只中にあったのです。

日本人は一人一人がお互いの能力にリミッターを掛け合っているのです。リミッターを外せば日本人にも芸術や哲学が理解できるはずなのに、それができないようなリミッターを掛け合っているのです。それは敗戦後遺症の定着だとも言えるし、法華経由来の伝統だとも言えるのです。

サブカルチャーとは何でしょうか?文明とは本来的に志の高さを有してますが、サブカルチャーにはそれがありません。赤瀬川原平さんのエッセイには文明へのリスペクトが無く志の高さがありません。そして「超芸術トマソン」は文明的志の高さの、サブカルチャー的パロディーだったのです。

しかし私は素朴であったのです。赤瀬川さんのパロディーを文字通りの「文明的な志の高さ」として誤解して受け取ったのです。そのように受け取りながら、自分はその「文明的な志の高さ」そのものを素朴に誤解していたので、尚更に混乱が生じたのでした。

サブカルチャーの良さは、その志の低さにあります。南伸坊さんに直接伺いましたが、何事も本格的になるとツマラナクなるのです。その意味で私の言う事はツマラナクて野暮なのです。一方でサブカルチャーの良さをあらためて認める事は、私自身に取っても必要なことです。

その人が素朴なのは怠惰の結果です。素朴な人は怠惰であり、素朴は怠惰の現れです。しかし怠惰そのものを批判することは出来ません。文明の利便性が人々に怠惰をもたらすからです。素朴な人は文明がもたらす利便性を、正当に享受してるのです。