アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

神事と芸術

赤瀬川原平『反芸術アンパン』再読しましたが、「自分の体験」が大切に語られた良書である一方、自分の体験を相対的に対象化する視点は無かったのでした。そのような視点から「超芸術トマソン」が生じたことを、私は改めて考えなくてはいけません。

ところで、世界はあるがままに存在してるのではなく、世界は私が望む通りに存在してるのでしょうか?世界はことごとく私の思い通りになりませんが、その「思い通りにならない事」も含め、世界は私の望む通りに存在してるのではないでしょうか。何故なら「思い通りにならない事」を私が望まなければ望みは実現するのです。

人は自分の望みを他人と相談し、一緒になって決めます。人は自分の望みを一人で決めることはできず、相談する他人を絶対的に必要とします。ところで世界は自分の望み通りにあるのなら、人は世界のあり方を他人と相談しながら決定します。人は互いに相談しあって、世界のあり方を決定してるのです。

私は「芸術とは何か?」を赤瀬川原平さんに相談して決めたのです。いやご本人に直接お目にかかったことはないですが、著書を通じて相談して決めたのでした。しかし相談相手として正しかったのか?そこが問題です。

「反芸術」とは何でしょう?赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」は、ご自身が体験された「反芸術」の延長にあり、私もそれに同調したのです。しかしオルテガの『大衆の反逆』によれば、「反◯◯」という態度は、そもそも反発するところの「◯◯」についてどう認識しているか?が問題になります。

『反芸術アンパン』において、赤瀬川原平さんは「芸術」をどのように捉えていたか?それが「反芸術」を考える上での問題で「超芸術トマソン」に連なる問題です。一連の著作から伺えるのは、赤瀬川さんは芸術と言うものを実に素朴な視点で捉えていた事です。

素朴な視点とは、自分の体験や感性に即した正直な視点である一方、学問的な客観性に欠ける視点だと言えます。この場合の客観性とは、自分の体験や感覚を、歴史的事象に照らして相対化し、反省的に捉える視点です。赤瀬川原平さんの芸術観は、その意味で素朴な視点によるものでした。

赤瀬川原平さんの芸術論は、中古カメラの著作と同様に、素朴な視点で書かれていて、それが味であり売りなのでした。言うなれば素人が、専門家や世間の人の言うことに惑わされず、自分が経験し感じるところ思うところに忠実に書いた、そんな芸術論なのでした。

実に「反芸術」「超芸術」などと一口に言っても、「芸術」の意味が人によって多種多様であり、それに反したり超越するところの意味も同様に多種多様なのです。そしてこの場合の多種多様は、実のところ「レベルの違い」に集約されます。芸術の問題は一方で(哲学と同様)レベルの問題であるのです。

さて私自身の芸術観ですが、当然のことながら素朴に違いなく、私にとっての「反芸術」も同様でした。いったい私はどのような芸術に反発していたのか?問題の一つは、素朴な人が「本物の芸術」と「ニセの芸術」を区別せず取り違える事です。哲学も同様で、これらの問題はしばしばセットになっています。

芸術は難解です。ですから「難解」を装った「ニセの芸術」が世間に横行し素朴な人々を惑わすのです。同様に哲学は難解でありだから「難解」を装った「ニセの哲学」も世間に横行しています。芸術の難解さをニセ物に惑わされずに認識するには、本物の哲学に触れ、そこから導き出すのが一つの有効な手段です。

「ニセの哲学」「ニセの哲学」とは法華経で説かれる「方便」であり「巧妙な手段」です。仏教とは哲学であり、哲学は難解で万人に伝えることは不可能なのです。その「絶対的な絶望」から法華経のお釈迦様は「方便」を説き、その系譜が「ニセの哲学」「ニセの哲学」となり現代にも受け継がれているのです。

フッサールの合間に法華経を再読して分かるのは、仏教とは本来的には哲学である、と言うことです。哲学を哲学として万人に語ることは絶望的に不可能であり、そこで哲学を(不思議な力を備えた)宗教として、そのような方便として語る他なかったのでしたわけです。

哲学とは大きな力です。それは人を絶対的に「自由」にする力です。何故なら世界は自分の「考え」で出来ており、故に「考え」を変えれば絶対的な自由が手に入るのです。ところがこれを素朴な人々に伝えることは絶望的に不可能で、だから哲学を超自然的力を備えた宗教に置き換えて説いたのが方便なのでした。

さて科学の時代になると、哲学の方便として、宗教が科学に置き換わるのです。科学は人々を物理法則の拘束から解放し、自由をもたらす手段です。その力において科学は宗教を確実に超えています。おかけで現代人は様々な利便性を享受できるのです。しかしその科学をフッサールは「素朴」だと批判します。

科学とは何かといえば、それは哲学の方便ではないかと私は思うのです。人間の理性による真に大きな力を有するのは哲学です。しかしその力を万人が身に付けることは絶望的に不可能です。ですから同じく人間の理性の産物である科学的思考が、哲学の方便として採用されたのです。

科学がいかに客観性や再現性を主張しようとも、フッサールが指摘するように、それは哲学的には素朴な態度の産物でしかないのです。私が見たところ、科学とは哲学の方便なのです。原子力の巨大パワーも哲学の大いなる力の方便に過ぎず、実際に高度に違いない一方で、不完全で素朴なものでしかないのです。

話が逸れましたが、赤瀬川原平さんの芸術観についてでした。つまりこれは哲学的意味での芸術ではなく、より一般に向けての方便であり、だからこそ語り口は巧妙で私を含む人々を魅了したのでした。

法華経的に解釈すれば、仏を神のごとく祭壇に祀り上げたように、赤瀬川原平さんは芸術を神のごとく祭壇に祀り上げたのです。それは現代日本人に一般的な芸術感で、岡本太郎『今日の芸術』で示された態度と同様なのです。

この神のごとく祀り上げた芸術を囲み、神事としてのお祭りに熱中したのが、赤瀬川原平さんが語る『反芸術アンパン』であり『東京ミキサー計画』ではなかったでしょうか?もちろん赤瀬川さんご自身は、そんな意識はなかったはずですが、私は当初から潜在的にそんな意味に受け取っていたのかも知れません。

お祭りに熱中した人は、短期間にその熱が冷めるのです。『反芸術アンパン』に熱狂的に参加したアーティストのうち、赤瀬川原平さんと、その他のメンバーとでは、「熱の冷め方」において違いがあり、その点に私は惹きつけられたと言えるかもしれません。

赤瀬川原平さんは神事としての祭の熱狂が冷めた故に芸術から遠ざかり、程なくして「超芸術トマソン」を見出しましたが、その意味は「神は教会にはいない」だと私は受け取ったのでした。しかし「王様は裸だ!」と指摘するだけなら子供にもできるし、赤瀬川さんのトマソンもそうではなかったでしょうか?

子供が「王様は裸だ!」と言えるのは、祭に参加しない部外者ならではの、冷静とも思える視点です。しかし子供の視点は自らの反省が欠如し、真に冷静とは言えません。実に赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」はその意味で「言いっ放し」であり、まともな芸術論として価値が認められていないのです。

赤瀬川原平さんは「王様は裸だ!」と指摘しましたが、その視点は自己への反省を欠いた素朴な子供のものに止まっていたのではなかったでしょうか?一方で「王様は裸だ!」というその指摘自体は事実に違いなかったのであり、ここに日本特有の、現代アートにまつわる問題があるのではないでしょうか?