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純粋哲学と純粋芸術

我々が自分で“見ること”のないものについては一切明言しないようにするなら、我々は上途のようなすべての偏見から免れるであろう。だがこの点がデカルトには欠けていた。
フッサールデカルト省察

私も現象学的判断停止は、途中まではできてたのかもしれません。
しかし「非人称芸術」という概念によって、全てを「自明の芸術」に還元したため、哲学的広がりを持ち得なかったのでした。
私は「自明の芸術」を岡本太郎赤瀬川原平中島義道から引き継ぎ、ここにいわば「日本人的な躓き」があったのです。

あらためて中島義道著『哲学の教科書』を再読して、私の「自明の芸術」にこの本の影響もあった事も確認できました。
中島先生は「才能論」を語り、そのように才能論で語る「芸術とは何か?」は俗論であり、「自明の芸術」でしかないのです。

哲学者である中島義道先生が、なぜ通俗的で自明的な芸術論を語るのか?
それは『哲学の教科書』のうち「哲学とは何でないか」という章において、哲学を芸術、文学、思想、宗教、科学など“ではない”として切り離してるからです。
哲学と無関係な芸術論が、通俗的で自明的になるのは当たり前で、私はこれを真に受けたのです。

フッサールは科学者を素朴だと非難すると同時に、科学を含めたあらゆる学問の根本に哲学があるとしています。
フッサールの師ブレンターノも、政治家も哲学的思考を学ぶべきだと説いてます。
現在の私は中島義道先生が説く言わば「純粋哲学」よりも、フッサールやブレンターノを支持します。

「哲学は諸学問の基礎である」というフッサールに対し、中島義道先生は「哲学は◯◯ではない」という具合に諸分野から切り離された言わば「純粋哲学」を説きます。
この「純粋哲学」という考えがいびつだとすれば、「純粋芸術」という考えもまたいびつであり、「芸術のための芸術」を自明的に捉える自分の考えを反省しなくてはいけません。

純粋芸術は「芸術の為の芸術」を唱えますが、この起源はモーセの十戒の「3:神の名をみだりに唱えてはならない」にあるのではないでしょうか?
「神の名を唱える」とは神頼みを意味し、人が神を「◯◯の為」という具合に使役する事を厳しく戒めているのです。

「神を使役してはならない」という戒めに倣い、芸術を他の目的のために使役する事を戒め「芸術のための芸術」を唱えるのが純粋芸術であり、芸術至上主義なのでしょうか?

しかし「神を使役してはならない」という教えに倣うなら、そもそも唯一の神を差し置いて、芸術そのものが「芸術のための芸術」を唱えることに、どれだけの意味があるのでしょうか?
唯一の神を差し置いて、芸術だけが単独で、純粋に存在しうるのでしょうか?