アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

軽蔑と基準

他人を軽蔑することで「自分」を成立させる指向性が存在します。
つまり「自分に分からないもの」をそれを理由に「どのように解釈するのも自由」と見做し、「軽蔑の対象」と認識するのです。
「自分に分からないもの」に対する理解の扉を閉ざす事で、自分の相対的優位を「強弁」するのです。

劣等感に悩む人は、相対的な劣等感に悩み、他人に対し相対的な優位を得ようとします。
彼の武器は「劣等感の反転」で、あらゆる「自分に理解できないもの」を心の底から軽蔑します。
「他者への理解」に対し心を頑なに閉ざし、誰に対しても常に「相対的優位」を得ようとします。

誰にとっても世界は「分からないもの」として立ち現れます。
これに対し二つの取り得る態度があります。
一つは「分からないもの」をそれ故に「解釈自由」と見做し「自分の解釈」を最後まで押し通す事です。
もう一つは「分からないもの」を調べて分かろうとする態度です。
前者が「強弁」で、後者が「認識」です。

「分からないもの」に対し「解釈自由」と見做し、積極的に自由に解釈することを「創造」に結び付けようとしたのが私の「非人称芸術」でした。
この方法の欠点は哲学的ではない点です。これを哲学的に再考察するとどうなるか?

「分からないもの=解釈自由」として、なぜ「自分」が解釈の基準となり得るのか?その根拠は何処にもありません。
なぜなら自分以外に「他者」が存在し、「自分」とは大勢の他者の一人に過ぎないからです。

自分を物事の判断の「基準」とする人は、大勢の「他者」の中から「自分」だけを恣意的に選んで特別視ししています。
これは聖書の神様が、大勢の中から「神の声を聞くことのできる者=預言者」を、恣意的に一人だけ選んだ事とよく似ています。
自分を基準に物事を判断する人は、神のように、預言者のように振る舞います。

「分からないもの」がいかようにも解釈自由だとすると、一方では「分からないもの」をいかようにも解釈する自由をあらゆる「他者」が有しており、自分はその一員に過ぎません。
ですので「自分」の解釈だけを特別視しする根拠は何処にもありません。

多くの人はなぜ「自分」を根拠にしようとするのか?
その理由の一つは、人々は何よりも判断の「基準」を求めており、そして手っ取り早く「自分」を基準に据えるのではないでしょうか?
なぜなら大勢の人間のうち、自分にとって「自分」をだけが「他者ではない」という意味で特別な人間だからです。

大勢の人間のうち、自分にとって「自分」だけが「他者ではない」という点で特別な存在です。
しかしその事は「自分」を物事の判断の基準とする根拠にはなりません。
しかし「自分だけが他者ではない」というその特別性において、「自分」は「人間の存在を超越した神」に似ており、ここに錯誤が生じるのではないでしょうか?