アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

贈与と拒絶

「博愛主義」の立場では、原理的に全ての生き物は可愛らしく、美しく、価値があります。
一方で、自分の好き嫌いによって、生物の価値を決める立場があります。
もう一つ、人間にとっての有用性によって生物の価値を判断する立場があります。
いずれにしろ生物の優劣を、その本質において決める立場は存在し得ません。

人が作ったものではない自然物には優劣がなく、人が作ったものに優劣があるのは何故なのでしょうか?

神様は完全なので、神様が創ったものもまた完全です。
しかしながら、神様が創った人間は愚かなのです。これは矛盾なのでしょうか?

神様は完全なので、神様が創ったものは完全です。
例えば人体の精緻な仕組みが理解されるごとに、人体の完全さが理解できます。
同じく、あらゆる生物の身体は完全で、それは神が完全であることの証だと言うことが出来ます。ところが人間の精神は、その身体のように完全ではなく、愚かなのです。

キリスト教的に言えば」という断りを入れるのを忘れましたが、神様は完全なので、神様が創ったものは完全で、人間も動物もその身体は完全です。
ところが人間の精神は愚かで、動物の精神も愚かです。
つまり動物や人間の精神は、神様が創ったものではないのでしょうか?

動物のような精神の持ち主を「愚かな人」と言います。
例えば犬のように貪欲な人間は愚か者として軽蔑されますが、犬の貪欲さそのものは生存に必要な本能として備わったもので、軽蔑の対象にはなりません。

その生物に元から備わっているもの、身体にしろ本能にしろ、それは(キリスト教的に言えば)完全なる神の創造物であり、どれもが完全で、それは言わば神からの贈り物です。
ところが人間は、そのような「神からの贈り物」を拒絶しています。
つまり人間には動物が備えるべき本能の多くを欠いているのです。

人間の身体は、神の創造物だと言えますが、人間の精神は神の創造物ではありません。
人間は、自分の精神を、神によって創造されることを拒絶し、だから動物が備えるべき本能の大部分を欠いているのです。
人間の精神は、人間が自分で創造しなければなりません。

完全なる神の創造物であるはずの人間は、なぜ愚かなのか?
あくまで概念的に言えば、人間は神が創造した「完全なる身体」という贈与を受け取りながら、一方では神が創造した「完全なる精神」という贈与を拒絶しているのです。
人間の精神は、赤ん坊んのゼロの状態から、自分で作り上げていかなければなりません。

神が創ったものに優劣はありませんが、人が創っものには優劣があります。
人が創るものは人の精神の反映で、人の精神には優劣があるのです。
なぜなら人は神が創造した「完全なる身体」という贈与を受け取りながら、同時に神が創造した「完全なる精神」という贈与を拒絶したからです。

芸術が尊いのは、それが神の創造物ではない点にあります。
人による創造物には優劣があり、だからこそ優れた芸術には意味があるのです。
一方で神の創造物は全てが均等に尊いのです。
しかし人間は「神による芸術の創造」という尊い贈り物を拒否したのです。
ですから芸術には明確な優劣があるのです。

人の精神は、赤ん坊んのゼロの状態から、各自が作り上げるものです。
ですから人の精神には、明確な優劣を認めることができるのです。
また人間が作ったものは人間の精神の反映であり、同じく明確な優劣が認められます。
ところが自然物は人間が作ったものではないので、本来的に優劣の判断は出来ないのです

人間が作ったものではない自然物は、本来的に優劣の判断はできません。
これを「神の創造物」だとして「だから全てが尊い」とする主張が(その意味での)博愛主義です。
この意味での博愛主義は、神が創ったものではないもの=人の精神には当てはまらないのです。

実のところ、「完全なる神が創造した自然物は完全である」という価値観はイデオロギーでしかありません。
人が作ったものに対しては、それ故に優劣の判断が可能ですが、人が作ったものではない自然物に対し(優劣も含め)どう判断するか?は慎重に考えなければなりません。