アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

観察と礼拝

●頭のいい人は勉強の仕方が上手いので、頭の悪い人との差はますます開いてゆくのです。

●近代になって、教会の内と外が反転し、それが自然科学の一つの意味ではないでしょうか?
そして、私もその只中にいたのです。
つまり、それが私の言うところの「非人称芸術」の意味だったのです。
自然観察とは「教会の礼拝」の代替行為であり、自然観察の延長である路上観察も、礼拝の代替行為だったのです。

近代になって神が死に、そのニッチ(生態的地位)に据えられたものの一つが「自然科学」です。
ですから科学は、自然物を「人知を超えた崇高なもの」とするのです。
自然愛好家は、多かれ少なかれそのような「崇高さ」に惹かれているのではないでしょうか?
少なくとも私はそうでした。

自然観察の熱心な愛好者は、教会に礼拝するような感覚で、自然を観察するのではないでしょうか?
その意味で、近代になって教会の内と外が反転したと言えるのです。
そもそも自然科学は、キリスト教神学がその発生源なのです。

前途したような「自然科学」と「神」との関係は、何も目新しい指摘ではなく、私も村上陽一郎さんの本などで知った事に過ぎません。
しかし、単に知識として知ることと、実際に自分がそこに縛られている事を対象化し、抜け出すのは至難の技です。
脱け出すには脱出する先となる「外部」を形成しなければならないのです。

自分が何かのイデオロギーに縛られていることを、知識として知るだけでは、そこから抜け出すことは不可能です。
抜け出すには抜け出した先の「外部」を形成しなければならないからです。
そしてその外部は「哲学」によってのみ形成可能で、だからこそ非常に困難だと言えるのです。

「脱出」の意思があれば哲学は誰にでも可能なはずです。哲学の一つの意味は脱出の為のツールです。ですので「脱出」の必要を感じない人に、そもそも哲学は不要のもので、だから「知識のコレクション」をするだけの知識人が生じるのです。