アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

路上とフェティシズム

●自分にとって「路上」とは何なのか?ですが、昨日は故あって福島県いわき市小名浜から泉駅まで5キロ程歩いたのですが、充溢感があり楽しかった…だからこそ、それが何であるのか「反省」の必要があるのです。

一つ言えるのは、私がいかに「路上」を歩こうとも、そこには「構築性」というものがありません。つまりいくら「路上」を歩こうとも、私の認識や知識が深まることはないのです。

私の、単に「路上」を歩くだけでこれ程の充溢感が得られるという点が、一つの特殊能力なのでしょうか?
となると、これはフェティシズムの一形態なのでしょうか?
仮に「路上フェチ」だとすれば、多くの部分は説明可能かもしれません。
とすると、一般的なフェティシズムのその先に見えるものは何か?

フェティシズムの原義は「呪術崇拝」にありますが、私が「路上」という概念を意識し始めた当初、文化人類学にも興味を持っており、私の言う「路上」には呪術的要素があるのではないかと考えていたのですが、当時の自分には「宗教」の概念がなく、呪術との相違が明らかではなかったのでした。

フェティシズム」の言葉を最初に使った16世紀フランスの思想家シャルル・ド・ブロスに従うと、私の「路上」は少なくともフェティシズムではないようです。http://ln.is/ja.wikipedia.og/w/XA3ay…

フェティシズムの本来の意味は、人類最古の信仰形態で、1760年シャルル・ド・ブロスが匿名で書いた『フェティッシュ諸神の崇拝』で示されたのです。
フェティシズム偶像崇拝以前の宗教形態で、両者は似てるようでその実決定的に異なっているのです。

フェティシズムは崇拝者が選び取った「物体」が端的に「神」とされるのに対し、偶像崇拝では物体としての偶像の背後に、物体を超えた「神」が存在するとされる点が異なるのです。

またフェティシズムでは、信徒の要求に応えられなかった「神=物体」は虐待させるか打ち捨てられますが、偶像崇拝の場合は偶像の背後に存在する神霊は絶対視されている点に、明確な違いがあるそうです。
因みに宗教の段階になると、「神」に何かを要求すること自体が厳しく禁じられています。

現代の多くの人々は「物そのもの」にそれぞれの価値を見出し、その意味で本来的な意味でフェティシズムの時代だと言えるかもしれません。
つまり近代になって宗教の「神」が死に、偶像崇拝以前の古いフェティシズムの「神」が復活した訳です。

現代が「物そのもの」に神の如き価値を見出すフェティシズムの時代だとすれば、私の言う「路上」は明らかにフェティシズムではありません。
「路上」とは「物の集積」ですが、そうした「路上」を通して私は常にその「背後」の存在を見ているからです。
現代は、フェティシズムに埋め尽くされた息苦しい時代であって、そこから脱するために私は「路上」を歩くのかもしれません。

シャルル・ド・ブロスのフェティシズム論はマルクスの目に止まり、フェティシズムマルクス理論のキー概念の一つになったそうですが、マルクスはシャルル・ド・ブロスの名を一切明かさなかったということです。
ともかく現代は、マルクスが指摘したように物神崇拝=フェティシズムの時代であるのです。

フェティシズム偶像崇拝以前の古い宗教形態で、ここが実に重要です。本来的な意味でのフェティストは原始的で素朴な精神であるのです。

偶像崇拝者は偶像という物体の向こうに、それを超えた存在を見ますが、フェティストの精神はそのような「二重性」を理解せず、偶像という物体を即、神と見做します。フェティシズムは即物主義でもあるのです。
新即物主義という言葉がありますが、現代はそのような時代なのでしょうか?

●解脱すれば自我が自在に変容します。一つの、一定の形の自我に囚われなくなるからです。

自我が自在に変容可能とは、例えば好き嫌いがなくなるようなものでしょうか?カレーを食べる時はカレー好きの自我となり、うどんを食べる時はうどん好きの自我に変容する…カレーが好きでうどんが嫌いだというような、特定の自我に囚われる事がなく、その全面的深化が生じるのでしょうか?