偏見と記憶

 認識の大半は実は記憶でできています。例えば、目の前の歯ブラシを認識するとき、私は歯ブラシについての様々な記憶と共に、それを認識します。歯を磨いている私は、隣の部屋に家族がいることを認識しています。直接目では見ていなくとも、様々な記憶と関係性の中で、その存在は認識されるのです。

 直接的な知覚が、記憶を喚起させ、認識が成立します。初めての体験には記憶が伴わないことに特徴があります。記憶が伴わない初めての経験と、記憶に支配される経験とでは、同じ内容の経験でも質が違います。経験を重ねると記憶が積み重ねられ、経験は記憶に支配されるようになります。

 初めての経験は記憶が無いから手探りです。逆に言えば、経験を重ねた上に生じた視界は、記憶の方にその主体があります。目の前の現実ではなく、繰り返されたことの記憶が、手探りしなくても済むような視界をもたらします。

 慣れとは偏見です。経験を繰り返すこととは、偏見を生じさせることです。つまり初めての経験の様々な手探りの中から、ある一部の要素だけをピックアップし、他は消去する、という形で偏見を徐々に強化していきます。

 あらゆる自明性を排除しなければなりません。自明性とは偏見です。偏見とは記憶です。人は記憶に囚われ、そこから解放される必要があります。