アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

辺縁と共同体

 精神とは何か?人間の精神は共同体の産物です。精神は言葉の産物であり、言葉とは共同体の産物だからです。いや、産物なのではなく、言葉とは共同体そのものであり、従って各個人の精神も共同体そのものではないでしょうか?

 個人とはすなわち共同体ではないでしょうか?個人とは精神であり、精神とは言葉であり、言葉とは共同体そのものであるからです。個人は共同体の構成要素ではなく、個人がすなわち共同体なのです。

 目の前の他者に向き合っている時、私は個人と向き合っているのでしょうか?そうではなく、私は目の前の他者という共同体と向き合っているのではないでしょうか?そして目の前の他者に向き合う渡したいう個人もまた共同体なのです。

 対面するあなたと私は、個人と個人が対面してるのではなく、共同体の辺縁と辺縁が向き合っているのではないでしょうか?それというのも「私」という個人はどこか大きなところへと切り離されることなく繋がっていて、それは言葉によって繋がっているからです。

 私とは、個人とは、共同体の辺縁ではないでしょうか?対面する私とあなたの間には、「お互い別々の個人である」という明確な境界線が存在します。しかしその明確な境界線とは、実は「辺縁」ではないでしょうか?

 人類は全体として一つの共同体で、個人とはその辺縁ではないでしょうか?この場合の共同体とは、共時的かつ通時的であり、即ち空間も時間も超越しているのです。空間も時間も超越した共同体の、その辺縁が個人であり、私です。

 個人には、自分が共同体の辺縁であることを自覚した個人と、自分が共同体とは独立した「個人」だと思いなしている個人とがあります。

 個人が辺縁であることを忘れた個人には、養分が行き渡らなくなります。

 人間とは精神であり、精神とは関係であり、関係への関係であると言うキルケゴールの言葉は、人間が共同体であることを示しています。