アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

通俗と哲学

 中島義道先生の本は最初の入門書『哲学の教科書』から随分たくさん読んで、一時期入れ込んでましたが、今あらためて下記の記事を読んで分かることは、ビックリするほど通俗だということです。
http://linkis.com/toyokeizai.net/artic/cEeSO

 中島義道先生が専門とされるカント論や時間論について、私が何か言える立場に今はありません。しかしご自身の専門以外の分野について、中島義道先生の仰ることは、ビックリするほど通俗なのです。これは何を意味するか?と言えば総合性の無さです。

 フッサールの師であるブレンターノは、哲学はあらゆるものの基礎であるべきで、哲学から分野が分岐するのであり、例えば政治も哲学を基礎にすべきだと説いています。とすれば、哲学は総合性を有するはずですが、中島義道生の哲学にはそれが欠けていて、故に一方で過剰とも言えるほど通俗的なのです。

 「通俗」とは哲学の対義語の一つです。ですから中島義道先生は、専門の哲学以外の事柄について通俗を語るのだ、と言えるかもしれません。しかし、自分の専門以外の事柄について、通俗的に語ることが、果たして哲学的と言えるのか?フッサールラカンを読む限り、私にはとてもそのように思えないのです。

 以前の私は中島義道先生の著作を随分買って読んだのですが、今にして思えばその通俗性に惹かれたのです。私はそのように、哲学を通俗的に理解できればいいと、思っていたのです。なぜなら当時の私には「通俗」の対義語を知らず、これを対象化できなかったからです。

我わらの住む世界においてはもとより、およそこの世界の外でも、無制限に善と見なされ得るものは「善意思」の他には全く考えることが出来ない。(カント 道徳形而上学言論)

知力、才気、判断力ばかりでなく一般に精神的才能と呼ばれるようなもの、…或いはまた気質の特性としての勇気、果断、目的の遂行における堅忍不抜が、色々な点で善いものであり、望ましいものであることは疑いない、そこでこれらのものは自然の賜物と呼ばれるのである。(カント 道徳形而上学言論)

 カントの、この独特に釈然としない感じ、もしかしてカントには《象徴界》が無いのでしょうか?《象徴界》が無い故に原理を欠き、それを観念的になぞっている印象です。カント学者である中島義道先生もラカンの《想像界》《象徴界》《現実界》は全く分からないと、斎藤環さんのラカン入門書『生き延びるためのラカン』の解説に書いてました。

 中島義道生の哲学はどのように優れているか?実にその通俗性において優れているのであり、私もそれに惹きつけられたのです。今あらためて読んでみても、通俗的な文章として高い技術を示していて、感心してしまいます。