アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

他者と恨み

 時間や空間も「他者」と共同して作られます。時間も空間も、「自分」との関係において、他者が所有しているのです。時間や空間は認識の形式でもあります。認識とは、自分が他者を認識するのです。自分の目の中で他者が動き、時間や空間が生じます。

 私の問題は「他者」の存在がどうしようもなく自明化してしまっている点にあります。確かに私の非人称芸術は現象学的還元の「一種」ではあったのです。しかしその前提には「他者」の存在が、どうしようもなく自明化していたのでした。そのようにして私は必然的に行き詰まるのです。

 私にとってあらゆる生物は自明には存在せず、それ故に神秘にあふれています。これに対し私にとって人間は自明に存在し、人間が自覚的に産み出す芸術も、自明に存在するのです。これは明らかに不平等で不徹底な認識と言わねばなりません。私はそれだけ人間が嫌いなのです。嫌いなものは自明化します。

 私は生物に対しては博愛主義ですが、人間に対しては違います。何故か?という理由は色々ですが、一つ言えば人は誰でも生物に対し博愛主義ではなく、そのような人を私は愛することは出来ないのです。しかし、これは大きな矛盾で素朴な感情論に過ぎません。問題は感情で、感情は認識を妨げるのです。

 人間は自明には存在しないのです。これは自分にとって大きな発見ですが、なぜ見過ごされていたかが問題です。私は人間に対し恨みが強すぎました。恨みの感情が、その対象物を自明化し、恨みの感情を固定化し、そのような循環を生じさせます。循環からは解脱が必要で、恨みの感情を乗り越えることです。

 他者とは、自分にとって恨みの対象となり得るから、自分とは異なる他者なのです。自分もまた、同じ理由で他者からの怨みを買うのです。愛情は恨みの反対物です。他者に対して恨みという素地があるからこそ、愛情が生じ得るのです。感情の構造を見極めなければ、これを乗り越えることは出来ません。

 「自分」は他者によって「自分」として構成されます。例えば、自分は他者に与えられた言葉によって、自分を構成するのです。その他者に、自分は恨みを抱くのです。何故なら他者は同じ言葉によって、自分とは異なる「他者」として構成されるからです。

 他者に恨みを抱くのは、他者は自分と部分的に同一で、部分的に異なっているからです。自分と他者とではどこが同一でどこが異なるのか?これが明確に分別されずゴッチャになっていること自体が、他者の存在に対する自明性を生じさせ、恨みの根源となるのです。

 人間は、自分と似ている存在を「人間」とし、自分とあまり似ていない存在を「動物」とし区別します。人間即ち他者は自分と似ているが故に違いが際立ち恨みの対象となります。しかし私は昆虫がいかに自分即ち人間に良く似ているかを知りこれを愛します。一方、私は他者が自分にどれだけ似ているかを実は良く知らないのです。

 自分と他者とを隔てるものは何か?その一つ自分は多くの他人より劣っているというコンプレックスです。実に私は勉強ができない子供で、だから進学の際は美大に逃げたのです。美大も東京芸大多摩美武蔵美に入れずランクの下がる東京造形大でした。しかし3.11で意識が変わったのも事実です。

 3.11の事象から冷静に考えれば、自分と他人とを隔てるものは何もないのです。即ち、多くの他人は自分と同様に人間として劣っており、同じようにコンプレックスに悩んでいるのです。いやコンプレックスの現れ方が人により様々で、みな一様にコンプレックスなど無いように見えるだけなのです。