アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

哲学と芸術

 フッサールデカルト省察』やっと読み終えました。もちろん、内容をちゃんと理解できたとは到底言えないですが、ともかく中央公論社 『世界の名著62 ブレンターノ フッサール』に収録されたブレンターノ『道徳の源泉について』、フッサール『厳密な学としての哲学』『デカルト省察』『ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学』は一通り全部読み終えました。

 芸術とは何か?一つは通俗の否定です。しかし「芸術とは通俗の否定である」という定義もまた通俗的で、通俗的な「通俗の否定の仕方」と言うものがあるのです。私が陥ってたのは正にそれでした。「非人称芸術」とは「通俗的な通俗の否定」でしかなかったのです。

 真の意味での通俗の否定とは、哲学に他なりません。即ち芸術が通俗の否定であるならば、芸術家はそれ以前に哲学者であらねばなりません。つまり哲学とは難解である以前に必要なものであり、その意味で誰でも哲学者になることはできます。

 哲学が難解なのは、そもそも人間が、つまり誰にとっても自分自身そのものが、難解であることの反映にすぎません。その意味で本来哲学は多くの人にとって必要で、誰でも哲学者になれるのです。

 哲学を難解だからという理由で遠ざける人は、自分自身の難解さから目を背けているのです。自分自身の難解さから目を背け、これを棚に上げたまま、あらゆる問題を対症療法的に解決しようとしてるのです。

 通俗とは対症療法です。根本治療とは哲学です。人は誰でも精神異常者として産まれます。産まれたばかりの赤ん坊は、すべてを忘却した精神異常者で、その治療過程が即ち大人へと成長です。ですから対症療法だけでは、いつまでも中心の赤ん坊=精神異常が残存することになるのです。有り体に言うと、赤ん坊は精神異常者ではないですが、大人になっても赤ん坊のままの人は精神異常者です。

 芸術は哲学とは異なります。それは科学が哲学とは異なるのと同じ意味です。そして哲学の基盤のない科学が「素朴である」と批判されるのと同様、哲学の基盤のない芸術は素朴なのです。

 芸術と哲学は異なりますが、哲学は芸術の基盤です。なぜならフッサールによれば哲学はあらゆる分野の基盤であるからです。その意味で誰もが哲学から逃れることはできず、例えば「自分に哲学は関係ない」と思っていても、それがその人の哲学観なのです。

 哲学は通俗的であることを否定しますが、だからこそ通俗も哲学の一形態なのです。通俗は哲学的な堕落の極致ですが、いかに堕落しようとも通俗は哲学の一形態なのです。

 「哲学は自分に無関係だ」と思ってる人も、自分がいつか死ぬことを理屈として知っています。だから誰もが自分の死について、何らかの考えを持っていて、それがその人の哲学なのです。例えば「自分の死なんて考えた事もない」とか「死んだら天国に行く」といった考えも、哲学の一種ではあるのです。

 いや「誰もが」と言うのは言い過ぎで投網がデカすぎで無理がありました。フッサールは、哲学は全ての学問の基礎だと言っていたのです。 学問は辞書的には「理論に基づいて体系づけられた知識と研究方法の総称」で、芸術も学問です。いや実際には学問としての芸術と、学問でない芸術とがあります。自覚はしてるのですが私の論法は投網的で、ともかく網を全体にバッと投げて、隙間から漏れた分はまた別の網で掬おうという…なので乱暴で精度がないと非難されることはあります。 

「理論に基づいて体系づけられた知識と研究方法」とは無縁の芸術が、現代日本には蔓延しています。私もそうでしたが「芸術は爆発だ!」の岡本太郎の影響を多くの人が受けているのです。人間の精神エネルギーを、原爆のように裸で爆発させること!これが岡本太郎が主張した「今日の芸術」です。

 人間の精神エネルギーをダイナマイトや原爆のように裸で爆発させる「学問とは無縁の芸術」と、人間の精神エネルギーを「 理論に基づいて体系づけられた知識と研究方法」へと流し込んだ「学問としての芸術」とが存在するのです。「学問と無縁の芸術」は実は「学問としての芸術」を前提にその成果の上に成り立っています。しかし学問と無縁であるが故に、その前提や成り立ちを忘却してるのです。