アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

才能と天才

いろいろあって忘れてしまっていたのですが、「非人称芸術」の根拠というのを思い出したので、あらためて書き留めてみますが、

1:神は遍在する(遍く在る)。

2:故に、それが何であれ、自分が「神だ」と思ったものが、「神」として認識世界に立ち現れる。

3:故に、それが何であれ、自分が「芸術だ」と思ったものが、「芸術」として認識世界に立ち現れる。

というものです。

ここで言う「神」とは、聖書も読まない当時の私が、独自に見出した「神」であって、背景にあったのは、入門書経由で得た構造主義の知識だったのでした。

「神は遍在する」という思いは、ある時突然、直感されたのでした。

1991年頃だったか、私はアルバイト先の埼玉県志木市の住宅街で、一軒の家の玄関先で、アヒルが飼われているのを発見したのでした。

その数か月後か1年後くらいに、今度は別のアルバイトで板橋区の何処かに行った時、やはり庭先でアヒルが飼われているのを発見したのです。

この時、突然として「神は存在する」という直観が生じたのです。つまり、街中でアヒルが飼われているのは稀なことで、その例を二回目撃することはさらに稀です。これは単なる偶然ではありますが、しかしこれを「神の奇跡」と解釈しても自由であり、またこのアヒルを「神の使い」だと解釈するのも私の自由であり、そのような解釈に対し「間違いである」と明確な証拠を挙げて反論することも原理的に不可能なのです。

ここで私が直観したのは、自分が目撃したアヒルの存在が奇跡であるとか、これらのアヒルが神の使いであるとか、そういうことではなく、「神」と言うものはそうした仕方において、人間の認識世界に立ち現れるであろう、と言うことでした。

つまり、人間の認識能力には限界があり、故に人間の認識世界には「認識の外部世界」が存在し、それが「神」であろうと直感したのです。

そして、「認識の外部世界」は「認識世界」に常に接していて、「認識の外部世界」は「認識世界との境界面」として「認識世界」の内部に立ち現れるだろうと、直感したのです。

人間の認識世界に立ち現れる「神」とは、認識世界と、認識の外部世界の、境界面である、と言う直感です。

認識世界は、認識の外部世界と常に接しているのですから、故に「神」は遍在するのです。

そして、認識世界に立ち現れた認識の外部世界が「神」である、と言う作用を逆作用させれば、認識世界の内の、自分が「神」だと思った任意の箇所に「神」を見出すことができると直感したのです。

「神」は「認識の外部世界」という「ひとつのもの」ではありますが、「認識世界」の内部には「さまざまに異なる神」として立ち現れます。

それは、二次元平面に投影された、三次元立体物の影を考えると分かることですが、例えば「円柱形」のひとつの立体物に光を当てると、二次元平面上に、角度によって「円」「楕円」「長方形」などさまざまに異なる形の影となって現れるのです。

そしてもし仮に「二次元平面人」というものが存在したならば、その人たちにとって「三次元立体世界」とは認識の外部世界であり、その境界面が「立体物の影」として認識世界の内部に立ち現れるわけです。

そのようにして、人間にとって認識の外部世界である「神」は、「一つのもの」でありながら「さまざまに異なる神」として認識世界に立ち現れるのであり、一神教多神教の矛盾もこれによって統合できるのです。

次いで私は、「認識の外部世界」の存在として「芸術の完全態」或いは「芸術そのもの」と言ったものを直感したのでした。

これは後で考えるとプラトンイデア論に近く、「芸術のイデア」と言ったものですが、しかし当時の私はそういう知識がないままに、「芸術そのもの」の存在を、人間の認識の外部世界に、見出したのでした。

そして、認識世界におけるあらゆる芸術は、認識の外部世界に存在する「芸術そのもの」の投影された影であろうと直感したのです。

実にそれが「超芸術トマソン」の発展形としての「非人称芸術」の根拠になるわけですが、「芸術そのもの」も「神」のように遍在し、そして自分が「芸術」だと思ったそのものが何であれ、「芸術」として認識世界に顕現させ、見出すことが可能なのです。

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で、ここまで書いて気付いたのですが、上記の理論はそれなりに辻褄が合って整合性はあるのですが、その事自体がくせ者なのです。

私は当時、このそれなりに整合性のある直感に非常に満足していたのでした。つまり、私は自分の「才能」というものに満足し、故に囚われていたのでした。

実は「非人称芸術」の概念は、自分の芸術的才能の挫折から生じた、芸術における「才能」という概念の否定であったのですが、しかしその裏付け自体が自分自身の直感であり、才能であったのです。

何のことは無い、私は自分の才能に挫折し、しかしその後自分自身の優れた才能を自覚するに至り、自分が天才であったことに有頂天になり、それに固執していただけの話だったのです。

しかしその後、芸術に限らず「才能」や「天才」と言ったものが、通俗的な幻想でしか無いことが、徐々に理解できるようになってきたのです。

そうしてあらためて振り返ると、自分が思った以上に「才能」や「天才」と言った概念に縛られていたことに、気付いたのでした。