アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

アドルフ・ヒトラーと糸崎公朗

ヒトラーが若かりし頃に描いた絵が競売に掛けられ話題になってますが、あらためて見ると凡庸な写実画で、つまり彼はモダンアートが理解できずその意味で「普通の人」だったのです。そして普通の人の普通の理想を過激に追求したのが、ヒトラーの成した事だと言えるのではないでしょうか?

ヒトラーは非写実的なモダンアートを「退廃芸術」として弾圧し、またユダヤ人に対する憎悪と差別感情を剥き出しにしましたが、これらは共に「普通の人」の素朴な感情に基づいているのであり、それを極限まで追求した点が非凡だと言えるのです。

ふと気付いたのは、「非人称芸術」を提唱する私自身、先に書いたような意味でヒトラーに似ているのではないか?ということです。即ち「普通の人」の素朴な感覚を、極限まで追求しようとした点です。実に反省して考察すると、私の言うところの「非人称芸術」とはそのようなものではなかったのか?「非人称芸術」の根拠の一つは、「私が芸術だと思ったものが芸術である」という、芸術の素人ならではの素朴な感覚にあり、これを極限まで追求したのが、作者不在の非人称芸術というコンセプトだったのです。

ネット上のコミュニケーションから徐々に分かってきたのですが、多くの人が「自分が良いと思った作品が良い作品」で「自分が芸術だと思ったものが芸術だ」と主張します。実は私自身もこれに依拠して「自分が芸術だと思ったものが芸術だ」を極限まで追求し、「芸術における作者の否定」に至ったのであり、それが「非人称芸術」です。


不真面目な美大生だった私が偉そうなことは言えませんが、しかし最近、特に3.11
以降になって明確に分かってきたのは、日本の美術教育は崩壊してるのでは?ということです。言い換えると「専門知識に囚われない自由さ」が日本の美術教育にはあります。各自が自分なりの「素人考え」によって自分独自の芸術観を構築していくしかないのが日本の現状です。

多くの日本人アーティストと同様、私自身も自分なりの「素人考え」を動員し、なんとか自分なりの芸術観を構築しようとし、その結果到達したのが「非人称芸術」のコンセプトだったのです。

私自身には素人考えながら、芸術とはある種の「極限の追求」であると言う思いがありました。これに通俗的な才能論に基づく「自分の才能への失望」と、「自分が芸術だと思うものが芸術だ」という素人特有の感覚が奇妙に融合し、「非人称芸術」のコンセプトが生じたのでした。

分野にかかわらず、素人が陥りがちなパターンが存在します。その一つが、自分のリアルな感覚を疑わず絶対視する事です。デカルトは「まず自分の感覚を疑え」と説き、フッサールがこれを継承し徹底化したのです。

自然で素朴な感覚では、自分が見て聞いて体験して感じた事柄は、非常にリアルで疑いようがない真実のように思えます。この人間本来の自然生に逆らって疑う事が、どの分野に限らず専門家の領域だと言えます。デカルトが『方法序説』で書いたように、これは最も重要な「方法」の一つです。

ところが日本の美術教育では「自分の感性を疑わずに信じろ!」と言うように教えられるのです。これは実のところ岡本太郎の『今日の芸術』の影響もあるはずですが、デカルトが示した「自分の感性を疑え」という「方法」とは真逆なのです。

いや正確にはデカルトは「自分の自然な感性を疑え」と説いたのであり、フッサールも科学者のそうした素朴さを批判しながら「直観」そのものは重要視したのです。対して岡本太郎は「ありのままの自分」すなわち自然で素朴なままの感性を肯定し、これを芸術の根拠とせよと説いたのです。

私がデカルト方法序説』を読んだのは近年になってからであり、「非人称芸術」のコンセプトを提唱したのはそれよりだいぶ以前であり、つまり私の方法は「方法」として決定的に重要なものを欠いていたのでした。

反省すると私の方法の全てが間違っていたわけではないのですが、美術を行うにあたり哲学や思想や宗教を学ぼうとした事は正しく、しかし全てを入門書で済まそうとした事は間違いであり、これは素人が陥りがちな典型的な判断間違いです。