アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

神と誰か人間

どうしてあなたは自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけばあなたのものであり、売ってしまってもあなたの自由になったはずではないか。どうしてこんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて神を欺いたのだ。使徒行伝 5:3-4

ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊(みたま)を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」。使徒行伝 5:9

これに対してペテロをはじめ使徒たちは言った「人間に従うよりは、神に従うべきである。使徒行伝 5:29

あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない。使徒行伝 5:38-39

そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。使徒行伝 7:41

ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。

使徒行伝 7:51

いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。

使徒行伝 7:52

こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。使徒行伝 7:59-60

上記の聖書の考えは『孟子』の以下のくだりに似ています。

赤子匍匐將入井、非赤子之罪也(赤ん坊が這って井戸に落ちるのは、赤ん坊の責任ではない)。

この場合の赤ん坊は人民を示し、ずいぶん人を馬鹿にした話ですが、古今東西人民とは愚かな存在なのです。

自分が「間違った人」であることに気付かない人にとって、「正しい人」のアドバイスはことごとく自分に対する悪口として聞こえてくるのです。

自分が知らないうちに「強情」を張っていないかどうか、自分でチェックする価値はあります。

「自分の手で作ったもの」は「自分の手で作った」という理由だけで満足度が高いのです。それだけに、その満足度には客観性、普遍性がないのです。

人間に従うか、神に従うか?二者択一だとすれば、神に従わない人は必然的に誰か人間に従っているのです。