アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

学問と好み

『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でフッサールが指摘したのは「哲学をはじめとするヨーロッパの学問が学問になってない!」と言うことでしたが、そうであればヨーロッパのモダンアートも学問ではなく、アメリカ美術も厳密に学問であるのか疑わしく、まして日本おいてをや、なのです。

ですから私自身のこれはでの方法論がいかに非学問的であったとしても、それは仕方のないことであって、自分自身を責める必要も、恥じ入る必要も、ないのであります。自己を見つめて反省し、これから先に学問的方法論を探求して行けばよろしいのです。

美術における学問的方法論。その一つは「自分の好み」を基準にしない、と言うことです。そのためには「自分」から「自分の好み」を引き離し、これを対象化しなければなりません。「自分」と「自分の好み」が癒着し一体となった人に学問は出来ません。その人は大衆であり、学問的正しさを必要としないのです。

学問には学問的正しさがあり、大衆には大衆的正しさがあります。この相容れない二つの正しさが世の中に常に存在しているのです。ソクラテスやキリストの処刑もその現れです。そして私の「非人称芸術」ですが、これには実のところ大衆的な正しさがあり故に「正しい」。しかし学問的には間違いなのです。

大衆的に正しく、学問的に間違っている事物は、ごまんと存在します。私の「非人称芸術」とはその一つに過ぎません。非人称芸術は「自分の好み」を基準にしていたためそれは手続き的に学問になり得ません。いや私は「自分の好み」を超えようとはしたのですが、その学問的方法論の知識を欠いていたのです

情報化社会である現在においては、あらゆる人に対して学問の門戸は開かれています。と同時に、学問が多くの人から遠ざけられいるのが現代日本の状況でもあります。大学があっても、実質的に大学に学問がなく、学問を教えていない、誰も学問のなんたるかを知らないのが現代の日本なのです。

日本の大学は「大衆的正しさ」に満ちており、日本の知性の大半は「大衆的正しさ」を基準にしており、故に「正しい」のです。しかしそこに「学問的正しさ」は存在しないのです。学問への門戸は誰にでも開かれていますが、その門戸は上の人から下の人に至るまで遠ざけられているのです。

「正しさ」を「大衆的正しさ」と「学問的正しさ」に二分するのが学問です。一方で「大衆的正しさ」だけが正しく「学問的正しさ」を主張する者を処刑するのが大衆です。

「自分の好み」にとらわれる事なく「自分の好み」から自由になる事が学問への道です。「自分の好み」から自由になるには「自分の好み」が形成されるまでの歴史的経緯を知る必要があります。「自分の好み」は自分のオリジナルではなく、歴史的経緯によって必然的に形成されたものだからです。

「大衆的正しさ」のもう一つの基準は権威主義です。大衆は一方では自分では何が正しいかを判断することができず、だから「権威」を基準にそれを判定するのです。例えば、東大の哲学科を出てる人は哲学的に正しいとするのが「大衆的正しさ」です。

哲学者の中島義道先生は「自分の好み」を明確に主張しこれを基準とし、また自らが「東大卒」であることが自らが正しい事の根拠の一つに数えてますから、その意味で「大衆的正しさ」の哲学者だという事が出来ます。ですので中島義道先生は疑いようもなく「正しい」!だから私も一時期ずいぶん傾倒し、著作も沢山買ったのです

「大衆的正しさ」に依拠する学者が、自身の「正しさ」を守るため、「学問的正しさ」への門戸を人々から遠ざけているのです。