アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

料理と善意

自分の好み、趣味性は恣意性を基盤にしています。例えば私にはカメラ趣味があって車趣味はないのですが、なぜそうなのか?は恣意的にそうなってしまったとしか言い様がありません。

一方で、私は食べ物に関しては、基本的には好き嫌いがありません。つまり食べ物のカテゴリーについて、私は恣意的に「これが好きであれが嫌い」と言った区別をしていないのです。食べ物のカテゴリーに関して、私には趣味性と言うものがなく、普遍かつ平等主義なのです。

食のカテゴリーに関して好き嫌いのない私ですが、一方ではマズイものより美味しいものの方が好きなのです。この私の「美味しい/マズイ」の判断は恣意的な趣味性なのでしょうか?

美味しいもの、とは何でしょうか?美味しい料理にはそれを作った人の精神性の高さが感じられ、尊敬できるのです。逆にマズイものには精神性の低さ、そして時には作った側の悪意さえ感じられることがあるのです。料理の美味しいマズイの判断は、作った人の精神性の高さの判断と連動しているのです。

他人の精神の高さを判断することは、恣意的な自分の好みによる判断とは異なります。例えばケンカをして自分より強い人間と弱い人間とを判断する場合も、それを恣意的判断とは言わないでしょう。つまり自分に判断基準がある場合が恣意的であり、他人に判断基準を求めれば恣意性から逃れられるのです。

判断の恣意性から逃れるには、自分の好き嫌いで判断することなく、基準を他人に求める事です。判断基準を他人に求めるとは、他人の精神性の高さを計測する事です。料理をはじめとするあらゆる人工物は、人の精神の産物であり、人の精神の高低がそこに現れているのです。

人工物は人の精神の産物で、人の精神の高低が現れています。だとすれば、人の精神の反映では無い自然物に対し、人はなぜ感動したり「美しい」と感じたりするのでしょうか?

料理の美味しいマズイの判断とは、それを作った人の「善意」を判断しているのです。そして「自分が善かれと思って他人にした事が、必ずしも他人のためにならない」という意味で、善意とは知性の産物であるのです。善意を成す人はそれをするだけの知性を持ち合わせており、それが料理に現れるのです。

料理の美味しいマズイの判断は、実に知的判断なのです。これは恣意的な好き嫌いの判断とは異なるのです。恣意的な判断の基準は自分の好みにありますが、知的判断の基準は自分の外部に存在するのです。すると、自然物を美しいと思う価値判断の基準は、どこにあるのでしょうか?

自然物を見て感動する事は知性なのでしょうか?少なくとも言える事は、私が「路上」で得る感動は、つまり私が言うところの「非人称芸術」を見て歩いて得られる感動は、どれだけ繰り返しても知的な蓄積とはならないのです。

食べ物の好き嫌いのように、カテゴリーの差別は恣意性の呪縛を示しています。そして私の「非人称芸術」とは、カテゴリー差別を示しているのです。そしてフッサールの指摘によれば、あらゆる知的カテゴリーは、哲学からの分岐であるべきなのです。