アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

芸術と恐怖心

実に、恐怖症が問題でした。

多くの日本人は哲学恐怖症で、宗教恐怖症で、芸術恐怖症なのです。ですので、出来るだけそれらに近付かないようにし、近付かないためにそれらについて悪口を言うのです。

しかし私の場合は、最近になって哲学恐怖症と、宗教恐怖症は、だんだんと克服出来てきたのです。恐怖を持つ人は、結局のところ気負っているのですが、私の場合は哲学に対する気負いや、宗教に対する気負いが、だんだんと無くなってきたのです。しかし私は芸術恐怖症がいまだ克服出来ず、芸術に対する気負いがあるのです。

私の「非人称芸術」とは、芸術に対する恐怖と気負いの産物という側面があったのです。ですから正統性に欠け、展開性に欠け、そこで私は行き詰まってしまったのです。

私は芸術に対し恐怖があり、怯えがあり、こわばりがあり、身構えがあり、気負いがあるのです。それは実に日本人アーティストの多くも同様であるのです。

多くの日本人アーティストは芸術に対し恐怖心を持ち、そのため自分が信じる自分独自の芸術観へと逃げ込んでいるのです。それは私も同じであって、その意味で私は極めて凡庸な日本人アーティストに過ぎないのです。

あるものに対し気負いがあるのは不慣れだからです。あるものに対し気負いがあると、そのせいで何時まで経っても不慣れなままなのです。そのようにして、人は堂々巡りに陥ります。

芸術に対し恐怖があり、気負いがあるのは、ものごとを現象学的に捉えていないからです。恐怖とは、恐怖の対象を「実体」と捉えることから生じます。幽霊を怖がる人は幽霊を「実体」として捉えています。芸術に対し恐怖がある人は、芸術を実体として捉えており、現象学的視点が無いのです。