アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

上級と下級

日本人は同一情報をできるだけ多くの人と共有したいという欲望を持ちます。日本人には人間の細胞化への欲望があります。社会にとって個々の人間は細胞的な側面がありますが、日本人にはそれが強いのです。そして、人は情報によって、情報の共有によって細胞化するのです。

つまり日本人は全体主義なのです。ですから個人主義的な個人はいわば「ガン細胞」とみなされ正常化(平均化)への圧力がかけられます。

情報の単一化、均一化、は全体主義の産物です。岡本太郎が批判した「八の字文化」とは全体主義の産物で、そして当の岡本太郎全体主義的な「八の字文化」と化すのです。

日本では縄文文化と弥生文化の戦いが未だに続いているのです。しかも人々はこれに無自覚であるため、反転を繰り返しながら幾重にも折り重なっているのです。

日本においては支配階級=弥生人の文化と被支配階級=縄文人の文化が未だに戦いを続ており、私自身も無自覚的にこれに巻き込まれていたのです。

下級者が上級者に対し無理を強いて頼むのが「せがみ」とか「せびり取る」ことです。「自由を奪われた状況で抑圧された人間が逆らって爆発する象徴的な抵抗の形式」がヒステリーです。

癇癪持ちとは、下級者による上級者に対する抵抗の一形態です。子供が親に対し癇癪を起こすような、そういう癇癪持ちの大人が存在するのです。

幼児退行志向!日本人を一方で支配しているのはこれでした。岡本太郎の芸術も、幼児退行志向の産物だったのです!