アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

圧迫と気晴らし

努力とは時間の言い換えでもあります。努力を必要としないものは即効性があるのです。そして、努力の代替物としての、努力とは異なる種類の時間が存在します。越後妻有トリエンナーレの作品がなぜかくも散在しているのか?その理由がそれでは無いでしょうか?

努力とは構築性のある時間です。構築性の無い時間は気晴らしです。すると路上観察とそこから派生した非人称芸術に構築性が無いことは明らかで、つまりは気晴らしです。一体何の気を晴らそうとしていたのか?一つには文明からの圧迫ではなかったでしょうか?

自然人としての我々は文明からの圧迫を受けていて気晴らしが必要なのです。一方で文明人としての我々は自然からの圧迫を受けていて、しかしこれに対し気晴らしを必要としてると言えるのか?

自然からの圧力は、文明によって忘却されています。ゆえに人は文明の中の自然人として文明からの圧迫のみを受け、気晴らしを必要とします。いやそうではなく、文明が自然を退ける力が、同時に人の中の自然を圧迫するのです。ゆえに人は気晴らしを必要とするのです。それは薬の副作用のようなものです。

いや、人は自然から恵みを受ける一方で、その副作用としての害悪も受けています。その自然の害悪を退けるために人は文明を築き上げ維持しますが、その副作用の害悪が人を圧迫するのです。故に人は気晴らしを必要とするのです。

文明からの圧迫とは何でしょう?それは改めて考えるとして、例えば昆虫好きの人は文明からの圧迫を感じ、昆虫を愛でることで気晴らしをしてるのです。昆虫への興味とは幼児退行です。昆虫への興味は幼児的であり、昆虫といういわゆる下等動物が幼児的存在なのです。

昆虫に限らず、動物を見て「かわいい」と思って心が癒されるのは、そこに幼児としての「鏡」を見て、文明からの圧迫に対し気晴らしをしているからなのです。文明とは父親なるものの圧迫であり、そこから逃れる一つの手段は自ら幼児退行する事で、父親と出会う以前の状態を再現する事です。

我々が予期したようにはclassicの反意語は「新しい」または「最近の」ではなく、vulgar すなわち「低俗な」であった。#モダンの五つの顔

例えばシェークスピアでは「モダン」は「凡庸な、陳腐な」と同義語であった。#モダンの五つの顔

時代が古いという事は、世界が若かった事である。世界が年をとっている現代こそが古い時代なのであって、我々自身から「逆算して」古いと考える時代があるのではない。#モダンの五つの顔

時間とはなんでしょうか?時間によって物質が変化する。物質を変化せしめるテクノロジーの出現によって、時間の有り様、すなわち時間とは何か?が変化します。