アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

アリストテレス『形而上学』抜き書き

●もし個々の事物より他には何ものも存在しないとすれば、何らの思惟の対象も存在せず、存在するも全ては感覚の対象のみであり、従ってなにものの認識も無いという事になろう。

●いやしくもある人の言うように、感覚が認識であるというので無いならば、なおまた何らの永遠なものも、不変不動なものも存在しないという事になろう。
なぜなら感覚の対象はすべて消滅するものであり、運動のうちにあるからである。

●ヘシオドスの仲間や、その他すべての神々の事を語る人々は、ただ彼ら自らにとって真実らしく思える事を考えただけで、我々他人の事など顧みていない。
だから神話的に語る彼らの詮議は真剣な検討には価しない。

●存在を存在として研究し、またこれに自体的に属するものどもを研究するひとつの学がある。
この学はいわゆる部分的〔特殊的〕諸学のうちいずれのひとつとも同じではない。
と言うのは、他の諸学のいずれの一つも存在を存在として一般的に考察しはしないで、ただそれのある部分を抽出し、これについてこれに付帯する属性を研究しているだけだからである。
例えば数学的諸学がそうである。
さて我々が原理を尋ね最高の原因を求めているからには、明らかにそれらはある自然〔実在〕の原因として、それ自体で存在するものであらねばならない。
ところで存在するものどもの元素を求めた人々も、もしこのような〔それ自体で存在する〕原理を求めていたのであるとすれば、必然にまたそれらの元素も付帯的意味で存在するといわれるものどもの元素ではなくて、存在としての存在の元素であらねばならない。
それ故に我々もまた存在としての存在の第一の原因を捉えなければならない。

●というのは、善や美は多くの物事の認識や運動の始まり〔アルケー〕だからである。